
今にも降り出しそうなどんよりとした午前中でしたが、少し明るくなってきました。
天候や気温に拘らずここ一週間程で少し春めいてきたような感じがします。
今日は「風生忌」。 富安風生先生の忌日です。
昭和54年2月22日午後1時6分に逝去されました。
九十五齢とは後生極楽春の風 富安風生
が辞世句ですが、生涯の高弟であった岸風三楼先生が遺された風生先生の句帳から抽いて発表されたものです。
まさに数え年95歳が享年となりました。
風生先生は岡本眸先生の師と云う事だけでなく、愛知県三河のご出身ですから、毎月我が結社「朝」の東海支部句会出席の為に岡崎市を訪れる私にとって孫弟子と云えどもとても親しみを覚える先師です。
岡崎に師縁俳縁風生忌 暢一
風生先生は中学生の頃 「名も聞かぬ片山里や梅林」 を新聞に投稿して入選された事もあったのですが、東大から逓信省に入省しての暫くは短歌の方に興味を持っていたようです。
為替貯金局長として福岡に赴任して俳句と縁が出来る事になります。当時の九州俳壇は錚々たる俳人が競い合っており学友などの影響もあり朝から晩まで俳句三昧だったそうです。独身の地方支局長ですから暇も十分にあったのでしょう。
30歳半ばの事ですから当時の著名俳人としては随分と晩学だった訳です。
その頃の初心時代の句です。
籾筵大河のへりに広げけり 初めて注目を浴びた句
鍛冶の火を浴びて四葩の静かかな ホトトギス初入選句
朝寒の機関車ぬくき顔を過ぐ
3年で東京に戻り「ホトトギス」でめきめきと実力を発揮して重鎮となり、やがて俳句結社 「若葉」を創立主宰等の以降は周知の事ですね。
「若葉」創立後9年目52歳の時に逓信次官をあっさりと退官して以降一切の役職を辞し、本人曰く 「風鈴の下にけふわれ一布衣たり」 の生活に入ります。
以上は岡本眸先生のお話からですが、眸先生が抽出した風生先生の代表句をほぼ年代順に記してみます。
再びの春雷を聞く湖舟かな
大文字夏山にしてよまれけり
蝶低し葵の花の低ければ
まさをなる空よりしだれざくらかな
街の雨鶯餅がもう出たか
退屈なガソリンガール柳の芽
すずかけ落葉ネオンパと赤くパと青く
夕顔の一つの花に夫婦かな
蟻地獄寂莫として飢ゑにけり
緑蔭を襖のうしろにも感ず
秋風は身辺にはた遠き木に
老いはいや死ぬこともいや年忘れ 古希の句
生くることやうやく楽し老いの春
勝負せずして七十九年老いの春
一生の疲れのどつと籐椅子に 「傘壽以降」
微笑もて戒めたまふ墓拝む 奥比叡の虚子塔にて
立冬の月皎々と朴の槍
数え日の欠かしもならぬ義理ひとつ
こときれてなほ邯鄲のうすみどり
余花の雨八十路の老のかんばせに
野牡丹とかけてこころは濃むらさき
朴落葉古き手摺に夫婦倚るり
郭公のさも郭公といふ遠さ
しみじみと年の港をいひなせる
見つめをる月より何かこぼれけり 昭和52年作
何かしら遠し遠しと年暮るる 以下昭和53年作
凍蝶の縋りし石の動ぎなし
妻よ生きよみんな生きよと笑ひぞめ
ホトトギス時代以降の活躍もさる事ながら、老年期に於いても風生先生は魅力的な句を発表しつづけ、山本健吉に「老艶の世界」と称されました。
以下掲句の他の代表句も少し抽いてみます。
稲かけて天の香具山かくれたり
一もとの姥子の宿の遅桜
みちのくの伊達の郡の春田かな
よろこべばしきりに落つる木の実かな
籠にさせるものゝ意に秋深し 〔意(こころ)〕
何もかも知つてをるなり竈猫
この道の欅の落葉はじまりぬ
きびきびと万物寒に入りけり
萩枯れて音といふものなかりけり
枯るるもの枯れ枯れ残るもの残る
人われを椋鳥と呼ぶ諾はん
本読めば本の中より虫の声
一生の楽しきころのソーダ水
わが生きる心音トトと夜半の冬
夏山の立ちはだかれる軒端かな
泡一つ抱いてはなさぬ水中花
わが机妻が占めをり土筆むく
山を見る一つ加えし齢もて
こうして改めて眺めてみると何と多彩な句風なのだろうと感嘆しますが、表現の真摯に またしみじみと ある時は軽妙にと、そのさりげない捻り 句姿の美しさ リズムの確かさ等まだまだ学ばなければと思わされます。
尚、10年前に寄稿した「一もとの姥子の宿の遅桜 富安風生」の鑑賞文を「句評・鑑賞」サイトに載せていますので宜しければ下記タイトルをクリックの上 ご覧下さい。
↓
‘「句評・鑑賞」 姥子の宿’
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