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2006年4月の2件の記事

2006年4月 8日 (土)

★ 放哉忌 (4月7日)

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 朝から少し生暖かい風が吹いていました。 晴れてはいるのですが、空は黄色っぽく薄ぼんやりとしていました。
 黄砂の影響なのでしょう。 春の季語に「霾晦(よなぐもり)」がありますが、まさに黄砂で空が薄く曇ったように見える今日の事を言うのでしょうね。

 今日4月8日は高浜虚子忌、昨日4月7日は尾崎放哉忌 三橋鷹女忌と著名俳人の忌日が続きます。
 高浜虚子については今更述べる迄もない程周知の偉大な俳人です。
 そこで尾崎放哉について少し述べてみます。

 尾崎放哉は近年特に脚光を浴びている種田山頭火と双璧の自由律俳人でした。
 放哉は明治18年生、山頭火は明治15年生と同時代同世代の俳人ですが、二人共に高学歴ながら妻子を捨て自ら選んだ放浪の果てに逝ったと云う境涯もよく似ています。

 放哉は鳥取市生まれ。一高から東大法科を卒業し東洋生命保険に入社の後、朝鮮火災海上保険の支配人とエリートコースを歩みながら、突然財物も妻も捨てて俳句三昧の漂白に身を置きました。 酒と関東大震災の経験が彼の人生観を変えさせたと言われています。
 満州を放浪したり須磨寺の堂守として住み込んだりした後、最晩年に療養を兼ね小豆島の俳縁を頼って西光寺の南郷庵に移り住みます。 

          すばらしい乳房だ蚊が居る
          眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
          島の小娘にお給仕されてゐる
          あらしが一本の柳に夜明けの橋
          足のうら洗えば白くなる
          海が少し見える小さい窓一つもつ
          追つかけて追ひ付いた風の中

          山に登れば淋しい村がみんな見える
          壁の新聞の女はいつも泣いて居る
          風音ばかりのなかの水汲む
          淋しい寝る本が無い
          久し振りの雨の雨だれの音
          自分が通っただけの冬ざれの石橋
          月夜の葦が折れとる
          墓のうらに廻る
          
 小豆島に渡ってきた頃は元気にて比較的おおらかに句を詠んでいますが、段々に淋しい句が目立ちだします。
 師の井泉水などから厳しく言われていた禁酒の約にも背き、酒乱で騒動を起こして詫びに廻る様な不始末も仕出かしたりしますが、間もなくして病弱の上に風邪をこじらせてしまいます。

          咳をしても一人

 にもかかわらず貧困と禁酒も守れぬまゝに酒に溺れてしまう生活が翌年彼を死に追いやってしまいます。
 最後は衰弱しきって老漁師夫婦の手に抱かれながら逝ったそうです。 大正15年4月7日、享年42歳でした。

          窓まで這つて来た顔出して青草
          渚白い足だし
          貧乏して植木鉢並べて居る
          霜とけ島光る
          障子に近く蘆枯るる風音
          一つの湯呑を置いてむせてゐる
          春の山のうしろから煙が出だした
          やせたからだを窓に置き船の汽笛
          すつかり病人になつて柳の糸がふかれる
          肉がやせて来る太い骨である

 昔書いたものですが尾崎放哉の句の鑑賞文を「 句評・鑑賞 」に掲載しています。

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2006年4月 1日 (土)

★ 三鬼忌

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 ここ数日の冷え込みも緩んで比較的暖かい日となりました。

 今日 4月1日は三鬼忌。 西東三鬼の忌日です。
 三鬼と言えば 

          水枕ガバリと寒い海がある

の句を誰もが思い浮かべるでしょう。 三鬼にとって初期に詠んだこの句が名句として後世に残っているように、彼は俳句に手を染めて僅か数年で頭角を現した俳人でした。
 しかも俳句を作り出したのは30歳代半ばと云う往時の著名俳人の中でも晩学です。 
 彼はシンガポールで5年開業していた歯科医を時局や病気の為に続けられなくなり、失意の内に昭和4年に帰国。 その後に俳人との縁が出来るまでは俳句に興味を抱いた事すらなかったと述べています。
 俳句の伝統的な事に興味が無く、また海外生活やその挫折が「言葉の魔術師」と称されるようになる特異な詠法の所以であるのかも知れません。

 三鬼は若い頃から乗馬・ダンス・ゴルフ・文学・音楽などを趣味とし、特にダンスは教師の資格も持っていた程のダンディーで派手な性格の一面もあったそうです。
 帰国後に開いた歯科医院を止めて共立病院の歯科部長に就任した折も謹厳実直と云う訳でなく、自分で「私は不忠実 不熱心な部長であった」と述べています。

 その歯科部長時代の昭和8年に、若旦那衆の雑俳の運座に無理矢理誘われて義理で嫌々参加しますが、その折に俳号をどうしますかと訊ねられて咄嗟に答えたのが「三鬼」の俳号の所以にて、「西東」は本名の斉藤をもじったものです。 俳句史に燦とその名を残す事になろうとはその時思いもしなかったことでしょう。 
 
 その年の終り頃に運座の世話役から俳誌「走馬燈」の同人を紹介され、本格的な俳句との縁を持つ事になりますが、翌年2月にはもう「走馬燈」の同人となって活躍しています。
 診察を待っている患者をほったらかしにして、「走馬燈」の同人達との俳話に熱中していたそうですから、よほど俳句にのめり込んでいったのでしょう。

 また昭和9年6月号の「馬酔木」に

          ひそかなるあしたの雨に囀れる  三鬼

の一句が出ています。 「馬酔木」初入選の句ですが、後年の才気ある三鬼らしさはまだ見られないようです。
 馬酔木俳句会にも出入りする事でまだ学生であった石田波郷と知り合い、後年俳句弾圧事件の最中に不安から二人で夜な夜な飲み浸った事や、昭和15年 特高に三鬼が自宅から逮捕連行された折、三鬼宅に居候していた波郷はたまゝゝ出掛けており、検挙を免れた等の逸話が残っています。

 三鬼も
          機関銃弾道交叉シテ匂フ
          逆襲ノ女兵士ヲ狙ひ撃テ!
          パラシウト天地の機銃フト黙ル

と戦場の想像句を詠んだりした時期がありました。
 やがて  
          砲音に鳥獣魚介冷え曇る

等と京大俳句のメンバーとして戦争に批判的と思われるような句を詠む様になり、東京に新興俳句運動の中心となる「天香」を発刊していた三鬼が、戦時下の特高から目を付けられたのは当然の成り行きでした。 責任者の平畑静塔を始め京大俳句の殆どの会員や、東京の三鬼の仲間達が次々と逮捕されても、三鬼は中々逮捕されず本人自身訝り反って焦ったそうですが、今から見てみると当局は中心人物の三鬼をわざと泳がせていたのでしょう。 

 戦後は昭和23年の「天狼」創刊時、編集長として山口誓子を補佐し根源俳句を実践します。 
 後に総合俳誌「俳句」の名編集長としても名を馳せ、「現代俳句協会」、そこから分裂した「俳人協会」の設立にも貢献します。 俳人としては稀有なほどエネルギッシュで行動的な人物であったようです。
 晩年「断崖」を主宰し、昭和37年 62歳にて神奈川県葉山にて没しました。

 戦前の句

          水枕ガバリと寒い海がある
          緑陰に三人の老婆わらへりき
          別れきて栗焼く顔をほてらせる
          道化師や大いに笑ふ馬より落ち
          冬天を降り来て鐵の椅子にあり
          哭く女窓の寒潮縞をなし
          湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ
          空港なりライタア處女の手にともる
          空港の硝子の部屋につめたき手
          絶壁に寒き男女の顔並ぶ
          戀ふ寒し身は雪嶺の天に浮き
          
 戦後の句

          野遊びの皆伏し彼等兵たりき
          みな大き袋を負へり雁渡る
          倒れたる案山子の顔の上に天
          おそるべき君等の乳房夏来る
          中年や遠くみのれる夜の桃
          限りなく降る雪何をもたらすや
          枯蓮のうごく時きてみなうごく
          穀象の群を天より見るごとく
          柿むく手母のごとく柿をむく
          露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

          黒人の掌の桃色にクリスマス
          大寒や轉びて諸手つく悲しさ
          ひげを剃り百足虫を殺し外出す
          九十九里濱に白靴提げて立つ
          老婆来て赤子を覗く寒の暮
          まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる
          赤き火事哄笑せしが今日黒し
          大旱の赤牛となり聲となる
          身に貯へん全山の蝉の聲
          初蝶や波郷に代わり死にもせで

          炎天の犬捕り低く唄ひ出す
          秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ
          寒夜明け赤い造花が又も在る
          数限りなき藁塚の一と化す
          広島や夜陰死にたる松立てり
          広島や林檎見しより息安し
          広島や卵食ふ時口ひらく
          暗く暑く大群衆と花火待つ
          蓮掘りが手もておのれの脚を抜く

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