★ 宗鑑忌
昨日からの雨が降り続いています。 昨日の少し強い雨と違ってしとしとゝした小雨です。 我が部屋の温度計は昼過ぎにて22.6℃。 素足が少し冷えます。
今日10月2日は 「宗鑑忌」。
室町・戦国時代の連歌師 山崎宗鑑(1465?~1553?)の忌日です。 但し旧暦での忌日ですから、新暦では11月22日にあたります。
山崎宗鑑は雅の道の連歌を離れ俗の世界の俳諧を推奨して俳諧撰集 「犬筑波集」 等を編纂し、伊勢の神官 荒木田守武と共に俳祖と呼ばれています。
ただ 「守武忌」 はポケット歳時記でも載せていますが、「宗鑑忌」 は私の手元の季語収録最多をうたい文句にする大歳時記にも収録されていませんでした。 季語だけを列挙した冊子にかろうじて載っているだけでした。 何故なのでしょうね。
同じ平易な言葉で俗の世界を詠んだと言えども、美意識を残している守武と比べて、手の込んだ洒落と卑俗奔放な宗鑑の句風は江戸時代の滑稽・戯れの行き過ぎた俳諧を思わせて現代俳句界から重視されていないのでしょうか。
元日や神代のことも思はるる 荒木田守武
うつつきてねぶとに鳴や郭公 山崎宗鑑
守武の句は伊勢神宮の元日を詠んでいて説明の必要もありません。
宗鑑の句は今の我々にとってこのまゝではよく理解出来ませんが、 「卯月来て音太に鳴くや郭公」 と書き直して表記すると判りますね。 なお「郭公」 は 「ほととぎす」 と読みます。
ところがこの句は 「根太(腫瘍の事)が痛んで泣いている郭公(守武)」 との意味を持たせた洒落なのです。
友人である守武が腫瘍にかかっているのをからかって詠んでいるのです。
宗鑑の句をもう一句。
風寒し破れ障子の神無月 山崎宗鑑
「郭公」の句も季重なりですが、現代から見てもま~許せる範囲です。
でも 「風寒し」の句 は季語だらけで なんともはやと思う句です。
これも言葉遊びの句です。 「破れ障子」 から 「紙が無い」 を連想して 「神無月」と洒落た訳です。
今から500年も前、和歌・連歌しか存在しなかった時代に初めて萌え出た俳諧の芽と考えれば、芭蕉から近代以降の作句の基本など遠い未来の事にて、宗鑑・守武のこれらの句は歴史的に重要な句と言えるのでしょう。 三句共 各地に立派な句碑があります。
当時、宗鑑と云う名の人が3人は存在していたようで資料的に紛らわしく、山崎宗鑑については年代に?を付けたように不明な事が多いようです。
近江の国(滋賀県草津市)の出身と云われ、室町幕府の九代将軍に仕えた武士ながら、将軍の死をきっかけに身分を捨てゝ連歌風狂の世界に身を置きます。
山崎に「對月庵」を結び長く住んだ事から 「山崎宗鑑」 と呼ばれるようになりました。
京に出て油を終日売り歩き帰庵するのを日課としていたようですから、生活には苦労していたのでしょう。
大阪府島本町山崎に 「宗鑑旧居跡」 「宗鑑井戸」 の遺跡があります。
有難き姿拝まんかきつばた 松尾芭蕉
掲句の芭蕉の句はよく知られていますが、宗鑑の遺跡を訪ねた折に詠まれた句です。 私が時折拝見している「芭蕉DB」で下記の解釈がなされています。
『その昔、近江公は、痩せこけて乞食のような山崎宗鑑がカキツバタを取っているのを見て、「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」と詠んだという。その哀れな姿はカキツバタならぬガキツバタだというのである。しかし、私はそんな風狂の宗鑑こそありがたい人であり、カキツバタに宗鑑の姿を写していま一面のカキツバタを見ている。芭蕉の乞食趣味の表出である。 』
晩年は讃岐の国(香川県観音寺市)の興昌寺に 「一夜庵」 を結びそこで生涯を終えたそうです。 享年89歳。
宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとようがありてあの世へといへ
が辞世ですが、晩年 「よう(できもの)」 を患いそのために命を失うことになる宗鑑は辞世でも言葉遊びをしています。
「一夜庵」 は宗鑑が客人の泊まるのを一夜しか許さなかった事からの名だそうです。
彼の没後、荒れ果てていた一夜庵を江戸時代の俳人達が再興させ、虚子達も訪れて句を残しています。
宗鑑の墓に花なき涼しさよ 高浜虚子
松の奥には障子の白きに松 荻原井泉水
浜から戻りても松の影ふむ砂白きに 河東碧梧桐
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