★ 三橋鷹女忌(4/7)。 野澤節子忌(4/9)。
今日は無風好天、実に穏やかな春日となりました。午後3時前の室温計は19.7℃。
昨日の東京は暴風雨にて羽田空港がストップするなど大変だったようですね。
伊勢でもその前日が大荒れにて名所である宮川堤の桜を一気に散らしてしまいました。
4月7日は尾崎放哉忌、三橋鷹女忌。
8日は高浜虚子忌(椿寿忌、惜春忌)。
9日は野澤節子忌(桜忌)。と著名俳人の忌日が続きます。
尾崎放哉については一昨年に取り上げました。
下記をクリックの上宜しければご覧下さい。
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『 ★ 放哉忌 』
高浜虚子は余りにも有名ですので、三橋鷹女と野澤節子について少し取り上げてみます。
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『三橋鷹女』
三橋鷹女は本名三橋たか。 明治32年12月24日千葉県成田市生まれ。 昭和47年4月7日 72歳にて逝去。
昭和20年の少し前くらいから俳人として中央俳壇で活躍し、山本健吉が三橋鷹女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子を当時の女流俳人を代表する4Tと名付けて賞賛した事は有名です。
娘時代は兄が師事していた若山牧水・与謝野晶子等に短歌を学びましたが、結婚後夫の影響で俳句を詠むようになります。 昭和3年より「鹿火屋」主宰の原原石鼎に師事するものゝ、昭和9年に退会。 他結社の同人になった事もありましたが、昭和13年以降はいずれの結社にも依らず独歩の地位を築き、昭和28年より富沢赤黄男・高柳重信の「薔薇」に参加して活躍しました。
三橋鷹女の代表句は
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
秋風や水より淡き魚のひれ
等ですが、これらの句からも窺えるように、激しい気性を持っていた俳人のようですね。
他の主要句も少し挙げてみます。
つはぶきはだんまりの花嫌ひな花
炎天に泣き濡れてゆく蟻のあり
きしきしときしきしと秋の玻璃を拭く
薄紅葉恋人ならば烏帽子で来
暖炉灼く夫よタンゴを踊ろうか
暖炉昏し壺の椿を投げ入れよ
みんな夢雪割草が咲いたのね
蔦枯れて一身がんじがらみなり
詩に痩せて二月渚をゆくはわたし
囀や海の平を死者歩く
笹鳴に逢ひたき人のあるにはある
老いながら椿となつて踊りけり
白露や死んでゆく日も帯締めて
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『野澤節子』
野澤節子は大正9念3月23日神奈川県横浜市生まれ。 平成7年4月9日 75歳にて逝去。
大野林火に師事。 「蘭」創刊主宰。
十代より患った脊髄カリエスで長い闘病生活を送りつゝ 強い意志を持って活躍した俳人でした。 彼女の俳句の出発は闘病中の「精神の純白の生地を、外的障碍によって決して引裂かれまい」という願いに基づくものであった事は知られていますが、第七句集「八朶集」には山本健吉が「定家と世阿弥と心敬と利休が願った幽玄と艶との別乾坤は、野澤さんが眼前に所期する世界だろうか」との讃を寄せています。
野澤節子の代表句は
さきみちてさくらおをざめゐたるかな
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし
野澤節子主宰の訃報が告げられている「蘭」には彼女の句も発表されていました。
辞世句と言ってもよいのでしょう。
雛かざる一と間は紅の色あふれ
雛飾る波瀾万丈とは言へず
雛の瞳にわが世鎮めて在すかな
他の句も少し挙げます。
天地の息合ひて激し雪降らす
遠の枯木桜と知れば日々待たる
春曙何すべくして目覚めけむ
朝はたれもしづかなこゑに寒卵
母は見しと一車の薔薇の街ゆくを
畳の上の一日母の日と思ふ
わが門の蛍袋を誰もいふ
われさらふ風の落花のいづこより
行く先の夢の渚にひとと逢ふ
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