★ 橋本多佳子忌
昨日の夕刻よりの雨が今日正午現在でも強く降っています。 室温計は21℃にて素足が冷えます。
緑さす素足の冷えをひとり言 岡本眸
今日 5月29日は歌人 与謝野晶子の忌日です。 1942(昭和17年)没。
俳人では4T(橋本多佳子・星野立子・中村汀子・三橋鷹子)と呼ばれ賞された内の一人である橋本多佳子の忌日です。 多佳子忌として歳時記にも載っています。
橋本多佳子は 「天狼」同人。 「七曜」主宰。 本名 橋本多満(生家姓 山谷)。
1899(明治32)年 東京生まれ。 1963(昭和38)年5月29日 64歳にて没。
大正6年に橋本豊次郎と結婚して九州小倉市に住む。
同じく小倉に住む杉田久女に俳句の手ほどきを受けつゝ 高浜虚子の「ホトトギス」に所属。 昭和4年 大阪帝塚山に移住。
やがて山口誓子を師と仰ぎ、誓子と共に「ホトトギス」を離れて水原秋桜子の「馬酔木」同人となる。
昭和12年 38歳にて夫と死別、戦争の為に奈良県伏見町へ疎開して定住の地に。
戦後、西東三鬼等と共に山口誓子主宰の「天狼」創刊に尽力し、「馬酔木」を辞す。
昭和25年 「七曜」主宰。
略歴は以上の通りですが、独自の華麗で情緒豊かな作風が高い評価を得た屈指の女流俳人でした。
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
息あらき雄鹿が立つは切なけれ
雄鹿の前吾もあらあらしき息す
月光にいのち死にゆくひとと寝る
掲句のように夫への恋句でも有名な俳人です。 「月光に」は夫が亡くなる時の句。
同じく小倉市出身の松本清張に杉田久女をモデルにして小説 『菊枕』があり、遺族による裁判沙汰になった事は知られていますが、清張は橋本多佳子をモデルに短編ですが『花衣』と云う小説も書いています。 久女の場合と違って好意的な記述振りです。
多佳子は美貌の俳人としても知られていました。
雪はげしき書き遺すこと何ぞ多き
が最期の句と言われています。
作品を少し挙げてみます。
乳母車夏の怒濤によこむきに
麦秋や乳児に噛まれて乳の創
祭笛吹くとき男佳かりける
祭笛うしろ姿のひた吹ける
一ところくらきをくぐる踊の輪
いなびかり北よりすれば北を見る
星空へ店より林檎あふれをり
泣きしあとわが白息の豊かなる
歌かるたよみつぎてゆく減らしゆく
深裂けの石榴一粒だにこぼれず
硯洗ふ墨あをあをと流れけり
七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ
凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ
あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ
螢籠昏ければ揺り炎えたたす
月一輪凍湖一輪光あふ
雪の日の浴身一指一趾愛し
つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため
花万朶皮膚のごとくに喪服着て
曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ
わが行けば露とびかかる葛の花
罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき
仏母たりとも女人は悲し灌仏会
きりきりと帯を纏きをり枯るる中
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コメント
のぶさん今日は。橋本多佳子読ませて頂きました。
大変勉強になりました。東京の叔母から送られた本の一冊に1986年のアサヒグラフ 女流俳句の世界の雑誌にアンケートベスト1位で載っていました。22年も前のものですが。
すごいですね、多佳子さんは。尊敬します。
投稿: 麗 | 2008年5月30日 (金) 13:13
麗さん こんにちは。
早速 ご覧頂き有難うございます。
22年前と云えば 橋本多佳子が亡くなって23年後の事ですが、まだ人気のトップにいたのですねぇ。
ご体験談を興味深く拝見致しました。
投稿: のぶ | 2008年5月30日 (金) 13:58
読みました。最後の彼女の句が良かった。古書店に売り払ってしまいましたが、以前朝日文庫の「橋本多佳子」(他の俳人と一緒の文庫でしたが他の俳人は忘れて仕舞いました)で彼女が天狼賞を3年連続受賞して、3回目の受賞の年に亡くなったと言う事を文庫所収の年表で知って如何に彼女が山口誓子に私淑して居たかを知りました。確か自ら創刊した「七曜」は彼女の娘が継いで居たかと思います。この「七曜」も誓子の有名な句「~の七曜又始まる」から取って居たかと思います。
投稿: とたか | 2012年4月10日 (火) 12:58
とたかさん コメントを有難うございました。
4年前の記事でもこうしてご覧頂けてコメントの交換が出来るのは何とも嬉しいかぎりです。ブログならではですね。
ここ2年ほどパソコンの無い生活にて新しく記事を書いていませんが、頂くコメントは携帯から拝見しています。今後とも宜敷くお願い致します。
投稿: のぶ | 2012年4月10日 (火) 13:19