« 2008年11月 | トップページ | 2009年2月 »

2008年12月の2件の記事

2008年12月14日 (日)

★ 赤穂義士祭 吉良祭。

 今日 12月14日は赤穂義士祭
 深夜に赤穂義士が吉良邸に討ち入った元禄15年12月14日は旧暦です。 
 現在の新暦で言えば1703年1月30日にあたります。
 映画などでも常に描かれるように深々と雪が降っていたのは事実のようですが、厳寒の1月30日の事と知れば納得出来ますね。

 俳句では 義士会 義士の日 義士討ち入りの日 赤穂義士祭 義士祭 等を季語に詠まれています。

   大義よく人死なしむる義士祭      岡本眸
   義士祭の太鼓玩具として打たる    岸風三楼
   義士祭香煙帰り来ても匂ふ      石田波郷
   曇天の花重たしや義士祭       石川桂郎
   天へ逃げし義士討入の日の風船   加倉井秋を
   義士会や浅野家の墓所浪速にも   大橋敦子
   討ち入りの日は家に居ることとせり  大串章
   義士の日の火の線香を山と積み   檜紀代
   松に月義士討入の日なりけり     安住敦
    

 わが結社東海支部の句会出席の為に毎月訪れる岡崎からは吉良上野介の国元の吉良町はごく近くですが、ここ吉良町では上野介の命日であるこの日を吉良祭として盛大な法要を行います。
 吉良上野介は地元でその優れた統治から名君として親しまれ尊敬されているのだそうです。

 俳句に関連した話としては、赤穂義士の中で大高源吾が赤穂藩中で俳人として一家をなしていて、蕉門の宝井其角とも親交があり子葉と号しました。 
 吉良の様子を俳句仲間から収集して重要な役割を果たしていた事はよく知られています。
 しかし討ち入り前日に

   あした待たるるこの宝船

と源吾が其角に討ち入りを暗示したと云う有名な逸話はどうも芝居上の創作のようです。
 実際の大高源吾の句としては討ち入り後に詠んだ

   日の恩やたちまちくたく厚氷

の句碑が両国橋のたもとにある公園に今も残っています。


 赤穂義士の中にはその他にも俳人が多くいます。
 小野寺十内、俳号「里龍」
 神崎与五郎、俳号「竹平」
 原惣右衛門、俳号「来水」
 茅野和助、俳号「禿峰」
 間重次郎、俳号「如柳」 
 寺坂吉右衛門、俳号「万水」
 吉田忠左衛門。俳号「白砂」
 冨森助右衛門、俳号「春帆」 等々。

   ------------------------------------------------------
      <本記事は3年前に投稿したものを加筆再編集致しました>

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月12日 (金)

★ 鈴木六林男忌

 ここ数日暖かい日が続きます。 今日も夜9時半の室温は16℃。
 しかし明日から低気圧の影響で気温が下がり、この日曜日にはまた冷え込むとの予報が出ていました。

 今日12月12日は俳人 鈴木六林男の忌日です。 平成16年肝不全で大阪府泉大津市の病院にて逝去。 享年85歳。 
 大正8年9月28日 大阪府泉北郡山滝村(現岸和田市)生まれ。 本名は次郎。

   ------------------------------------------------------  

 17歳の若さで鈴木六林男は俳句を詠み始め、20歳で戦前 新興俳句の拠点であった「京大俳句」に投句。 運動の旗手の一人で東京在住者の代表格であった西東三鬼に師事し、無季俳句を多く作りました。
 (西東三鬼については2006年4月 1日に記事にした事があります。 
  宜しければ 『 ★ 三鬼忌 』 をクリックの上ご覧下さい。)

 戦時中、中国・フィリピン等に従軍して辛酸を舐め、フィリピンのバターン・コレヒドール要塞戦で負傷して帰還。
 フィリピンでの戦場句集「荒天」を昭和24年に発表して世に知られるようになりました。
 「荒天」の代表句

    遺品あり岩波文庫『阿部一族』     六林男

 「荒天」の各項目の始めの句のみ挙げておきます。

    送る歌産院の高き窓よりも
    背嚢おもくひとりづつおりる
    弾痕街熱風に兵を叱る声
    長短の兵の痩身秋風裡
    壕を掘る秋夜の風に背を吹かれ
    瞑れば弾子散らばる地の起伏
    暁の鶏鳴とどく秋の軍隊
    愛遠し雪のたそがれを渇きゆく
    大陸に別るる雪の喇叭鳴り
    うつうつと砲音に午ひるが来てゐる
    いつ死ぬか―樹海の月に渇きゐる
    風を聴き夕日の金きんに染まつてゐる
    低き逓伝負傷者来る道をあけ!
    蜿蜒と炎炎と灼け雲を置く
    個個にゐて大夕焼に染りゐる
    瞑れば谷流れ血の赤きなど

 彼の身体には戦場での鉄の破片が入ったままだったそうです。

   ------------------------------------------------------

 戦後は山口誓子の「天狼(てんろう)」創刊に参加。
 1950年代の社会性俳句が盛んな折にも活躍し、以降俳句界の第一人者として高く評価されています。

  昭和46年「花曜」創刊主宰。
  昭和32年 「吹田操車場」などにて現代俳句協会賞  
  平成7年 「雨の時代」で蛇笏賞
  平成14年 現代俳句大賞 受賞。
  元大阪芸大教授。 元現代俳句協会副会長。

 代表句は

    天上も淋しからんに燕子花  六林男  (燕子花 カキツバタ)

   ------------------------------------------------------

 その他の句も少し挙げておきます。

    はや不和の三日の土を耕せる
    暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
    五月の夜未来ある身の髪匂う
    春の山やくざの墓に風あそぶ
    全病むと個の立ちつくす天の川
    何をしていた蛇が卵を呑み込むとき 
    さみだるる大僧正の猥談と
    血を売って愉快な青年たちの冬
    深山に蕨採りつつ滅びるか
    八十八夜都にこころやすからず
    わが死後の乗換駅の潦
    脚冷えて立ちて見ていし孤児の野球
    バレンタインの消えない死体途中の花
    直立の夜越しの怒り桜の木
    旅人われに雨降り山口市の鴉
    向日葵に大学の留守つづきおり
    泥棒や強盗に日の永くなり
                          .

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年2月 »