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2009年5月の2件の記事

2009年5月24日 (日)

★ 能村登四郎忌

 今日は新月。 旧暦の5月1日にあたります。 
 昼下がりの室温計は26℃、淡い日射しがあるものゝ薄雲の広がる空模様。
 しかし 夕方になって急に激しく降り出し雷も遠くより聞こえます。室温も2℃ほど下がりました。

 5月24日は俳人 能村登四郎の忌日です。 平成13(2001)年没。 享年90歳。
 尊敬していた俳人でしたので、訃報を聞いた折の衝撃は忘れられません。 
  
     火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ  登四郎

 掲句は俳句に親しむ方なら誰でもが知っている名句ですね。 主宰誌 『』 の名の由来です。


 <能村登四郎略歴>

 明治44(1911)年1月5日 東京都生まれ。 本名も同じ。
 国学院大卒、教員を経て専業俳人。 
 昭和31(1956)年現代俳句協会賞。
 昭和60(1985)年 「天上華」 で蛇笏賞。
 平成5(1993)年 「長嘯」 で詩歌文学館賞。

 句集 「租借音」 「合掌部落」 「枯野の沖」 「民話」 「幻山水」
     「有為の山」 「冬の音楽」 「天上華」 「寒九」 「菊塵」
 著書 「伝統の流れの端に立ちて」

 16歳で伯父より俳句の手ほどきを受けたのが始め。 折口信夫の影響下で短歌を詠んだ時期もありましたが、同誌解散後昭和14(1939)年 「馬酔木」 に入会、水原秋櫻子の指導を受ける。 
 昭和45(1970)年 「沖」 を創刊主宰。 
 教師生活を詠んだ句などで知られるようになった能村登四郎ですが、写実を超えた内面深化の作風と評されて常に俳界の主流を歩み、晩年は傘寿の老齢を自在に表現した放下の句境で異彩を放ちました。
 俳誌 「沖」 は現在 ご子息の能村研三氏が主宰継承。
 

 <能村登四郎 代表句抄>

     長靴に腰埋め野分の老教師
     火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
     今思へば皆遠火事のごとくなり
     曼珠沙華天のかぎりを青充たす
     初あかりそのまま命あかりかな
     捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ

     子にみやげなき秋の夜の肩車
     春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
     霜履きし箒しばらくして倒る
     蝿叩くには手ごろなる俳誌あり
     板前は教へ子なりし一の酉
     紐すこし貰ひに来たり雛納め

     曉紅に露の藁屋根合掌す
     くちびるを出て朝寒のこゑとなる
     よき教師たりや星透く鰯雲
     洗はれて月明を得む吾子の墓
     跳ぶ時の内股しろき蟇
     夏掛けのみづいろといふ自愛かな

     冬あをき椿葉にほひ部落婚
     梅漬けて赤き妻の手夜は愛す
     白川村夕霧すでに湖底めく
     朴散りし後妻が咲く天上華
     夜間教師慂められをり夜も野分

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 岡本眸先生は一昨年 蛇笏賞受賞後にエッセイ集 『栞ひも』を上梓されましたが、
 その中に 「忘れられぬことー能村登四郎」 と題した一文を所収しておられます。

 平成13年に書かれた文章ですが、一部を概略してご紹介してみます。

 『10年程前のこと、大久保駅前の生蕎麦屋で一卓だけ空いていた席で昼食をとっていると、一陣の寒風と共に入って来て、私の席の前へ坐られたのが、何と、能村登四郎先生。 先生もびっくりされたらしい。 顔をつき合わせるように蕎麦を啜る。 日頃私淑している方との相席なのだから、こちんこちんになって味も判らぬところなのだが、不思議に固くならず、ひたすら楽しかったのは、先生の飾らぬお人柄のおかげであろうと思う。 ------。

    捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ  (『合掌部落』)

 結婚後間もない私が、生活俳句の方向に示唆された一句で、その折の感動は今も鮮やかである。 5月24日、能村登四郎先生逝去。 この夏さみしさきわまりなくー。 -------。

                    ※

    捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ  登四郎
    春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
    紐すこし貰ひに来たり雛納め
    今思へば皆遠火事のごとくなり
    夏掛けのみづいろといふ自愛かな

 潔いほどの美意識と、確かな現実感が表裏をなす能村先生の作品は、後輩、とくに、日常身辺吟に執する私にとっては、得難く、大切な指標であり、師表であった。 どれほど教えられ、叱咤され、励まされたか判らない。 ------。

    さくら蘂うづ高く寄せ庭の隅  登四郎
    衣更へて新しく座す袖の位置

 「沖」 6月号より抽いた。 この号には能村先生ご逝去の謹告があり、そのあとに、先生の作品と、「歌右衛門逝く」 のエッセイがあった。 私には美しい 「二つの死」 のように思えた。 合掌。』

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 私の愛蔵書の一つに 俳句研究別冊 『能村登四郎読本』 (富士見書房)があります。 平成2(1990)年発行にて19年前に購入したものですが、能村登四郎の第一句集 「租借音」から第十句集 「菊塵」 までの全句集と、随筆・紀行・評論を所収した414頁の大冊です。
 この機会にところどころ読み返してみましたが、何度読んでも魅かれます。

 もう絶版になっていますが、古書店をネットで調べてみると定価1800円の同書に少焼けの古書にもかかわらず2800円の値が付いているものもありました。人気があるのですね。

       Img_0483

                 <画像拡大可>

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   (その他参考文献) 俳句α増刊号「逆引き 俳人名鑑」(毎日新聞社)

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2009年5月 4日 (月)

★ 寺山修司忌

 午前中に少し小雨が降り、あとは薄々とした曇天の一日でした。 

 今日は寺山修司忌。  
 1983(昭和58)年5月4日没。 享年47歳。 早世だったのですね。
 寺山修司は青森県生まれ。 早大中退。
 天井桟敷主宰として有名でしたが、劇作家、演出家、俳優、映画監督、評論家、詩人、俳人、歌人、エッセイスト、小説家、写真家 等々、実に多彩な経歴の持主ですが、まず世に出たのは歌人としてでした。 

 俳句は芸術家として原点と言ってもよい存在にて寺山修司自身以下のように述べています。
 『中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった。この亡びゆく詩型式に、私はひどく魅かれていた。』
 『十五歳から十九歳までのあいだに、ノートにしてほぼ十冊、各行にびっしりと書きつらねていった俳句は、日記にかわる「自己形成の記録」なのであった。』

 もっとも中学時代は俳句にあまり関心を持っていなかったようで、親友の詠んだ俳句が地方新聞に掲載された事による競争心から俳句に熱中しだしたのが真相のようです。

 高校3年に「蛍雪時代」へ投稿した句。 (中村草田男選で二席に入選)

       便所より青空見えて啄木忌 

 生涯に次の4句集を出しています。
 「われに五月を」(昭和32年)、 「わが金枝篇」(昭和48年)、 
「花粉航海」(昭和50年)、 「わが高校時代の犯罪」(昭和55年)。
 また「寺山修司の俳句入門」も著しています。

        <寺山修司俳句抄>       

       電球に蛾を閉じこめし五月かな
       秋風やひとさし指は誰の墓
       わが死後を書けばかならず春怒濤
       父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
       暗室より水の音する母の情事
       心臓の汽笛まつすぐ北望し
       家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
       蛍火で読みしは戸籍抄本のみ
       絹糸赤し村の暗部に出生し

       台詞ゆえ甕の落葉を見て泣きぬ
       わが夏帽どこまで転べども故郷
       秋暁の戸のすき間なり米研ぐ母
       他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
       莨(たばこ)火を樹で消し母校よりはなる
       軒燕古書売りし日は海へ行く
       車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
       燕の巣母の表札風に古り
       目つむりても吾を統ぶ五月の鷹

       流すべき流燈われの胸照らす 
       さんま焼くや煙突の影のびる頃
       鵞鳥の列は川沿ひがちに冬の旅  
       葱坊主どこをふり向きても故郷
       私生児が畳をかつぐ秋まつり
       卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ
       屋根裏に吊す玉葱修司の忌
       胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲

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