俳人・その他の忌日

2009年5月24日 (日)

★ 能村登四郎忌

 今日は新月。 旧暦の5月1日にあたります。 
 昼下がりの室温計は26℃、淡い日射しがあるものゝ薄雲の広がる空模様。
 しかし 夕方になって急に激しく降り出し雷も遠くより聞こえます。室温も2℃ほど下がりました。

 5月24日は俳人 能村登四郎の忌日です。 平成13(2001)年没。 享年90歳。
 尊敬していた俳人でしたので、訃報を聞いた折の衝撃は忘れられません。 
  
     火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ  登四郎

 掲句は俳句に親しむ方なら誰でもが知っている名句ですね。 主宰誌 『』 の名の由来です。


 <能村登四郎略歴>

 明治44(1911)年1月5日 東京都生まれ。 本名も同じ。
 国学院大卒、教員を経て専業俳人。 
 昭和31(1956)年現代俳句協会賞。
 昭和60(1985)年 「天上華」 で蛇笏賞。
 平成5(1993)年 「長嘯」 で詩歌文学館賞。

 句集 「租借音」 「合掌部落」 「枯野の沖」 「民話」 「幻山水」
     「有為の山」 「冬の音楽」 「天上華」 「寒九」 「菊塵」
 著書 「伝統の流れの端に立ちて」

 16歳で伯父より俳句の手ほどきを受けたのが始め。 折口信夫の影響下で短歌を詠んだ時期もありましたが、同誌解散後昭和14(1939)年 「馬酔木」 に入会、水原秋櫻子の指導を受ける。 
 昭和45(1970)年 「沖」 を創刊主宰。 
 教師生活を詠んだ句などで知られるようになった能村登四郎ですが、写実を超えた内面深化の作風と評されて常に俳界の主流を歩み、晩年は傘寿の老齢を自在に表現した放下の句境で異彩を放ちました。
 俳誌 「沖」 は現在 ご子息の能村研三氏が主宰継承。
 

 <能村登四郎 代表句抄>

     長靴に腰埋め野分の老教師
     火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ
     今思へば皆遠火事のごとくなり
     曼珠沙華天のかぎりを青充たす
     初あかりそのまま命あかりかな
     捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ

     子にみやげなき秋の夜の肩車
     春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
     霜履きし箒しばらくして倒る
     蝿叩くには手ごろなる俳誌あり
     板前は教へ子なりし一の酉
     紐すこし貰ひに来たり雛納め

     曉紅に露の藁屋根合掌す
     くちびるを出て朝寒のこゑとなる
     よき教師たりや星透く鰯雲
     洗はれて月明を得む吾子の墓
     跳ぶ時の内股しろき蟇
     夏掛けのみづいろといふ自愛かな

     冬あをき椿葉にほひ部落婚
     梅漬けて赤き妻の手夜は愛す
     白川村夕霧すでに湖底めく
     朴散りし後妻が咲く天上華
     夜間教師慂められをり夜も野分

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 岡本眸先生は一昨年 蛇笏賞受賞後にエッセイ集 『栞ひも』を上梓されましたが、
 その中に 「忘れられぬことー能村登四郎」 と題した一文を所収しておられます。

 平成13年に書かれた文章ですが、一部を概略してご紹介してみます。

 『10年程前のこと、大久保駅前の生蕎麦屋で一卓だけ空いていた席で昼食をとっていると、一陣の寒風と共に入って来て、私の席の前へ坐られたのが、何と、能村登四郎先生。 先生もびっくりされたらしい。 顔をつき合わせるように蕎麦を啜る。 日頃私淑している方との相席なのだから、こちんこちんになって味も判らぬところなのだが、不思議に固くならず、ひたすら楽しかったのは、先生の飾らぬお人柄のおかげであろうと思う。 ------。

    捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ  (『合掌部落』)

 結婚後間もない私が、生活俳句の方向に示唆された一句で、その折の感動は今も鮮やかである。 5月24日、能村登四郎先生逝去。 この夏さみしさきわまりなくー。 -------。

                    ※

    捨て湯の香明日晴れ寒さ極まらむ  登四郎
    春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
    紐すこし貰ひに来たり雛納め
    今思へば皆遠火事のごとくなり
    夏掛けのみづいろといふ自愛かな

 潔いほどの美意識と、確かな現実感が表裏をなす能村先生の作品は、後輩、とくに、日常身辺吟に執する私にとっては、得難く、大切な指標であり、師表であった。 どれほど教えられ、叱咤され、励まされたか判らない。 ------。

    さくら蘂うづ高く寄せ庭の隅  登四郎
    衣更へて新しく座す袖の位置

 「沖」 6月号より抽いた。 この号には能村先生ご逝去の謹告があり、そのあとに、先生の作品と、「歌右衛門逝く」 のエッセイがあった。 私には美しい 「二つの死」 のように思えた。 合掌。』

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 私の愛蔵書の一つに 俳句研究別冊 『能村登四郎読本』 (富士見書房)があります。 平成2(1990)年発行にて19年前に購入したものですが、能村登四郎の第一句集 「租借音」から第十句集 「菊塵」 までの全句集と、随筆・紀行・評論を所収した414頁の大冊です。
 この機会にところどころ読み返してみましたが、何度読んでも魅かれます。

 もう絶版になっていますが、古書店をネットで調べてみると定価1800円の同書に少焼けの古書にもかかわらず2800円の値が付いているものもありました。人気があるのですね。

       Img_0483

                 <画像拡大可>

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   (その他参考文献) 俳句α増刊号「逆引き 俳人名鑑」(毎日新聞社)

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2009年5月 4日 (月)

★ 寺山修司忌

 午前中に少し小雨が降り、あとは薄々とした曇天の一日でした。 

 今日は寺山修司忌。  
 1983(昭和58)年5月4日没。 享年47歳。 早世だったのですね。
 寺山修司は青森県生まれ。 早大中退。
 天井桟敷主宰として有名でしたが、劇作家、演出家、俳優、映画監督、評論家、詩人、俳人、歌人、エッセイスト、小説家、写真家 等々、実に多彩な経歴の持主ですが、まず世に出たのは歌人としてでした。 

 俳句は芸術家として原点と言ってもよい存在にて寺山修司自身以下のように述べています。
 『中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった。この亡びゆく詩型式に、私はひどく魅かれていた。』
 『十五歳から十九歳までのあいだに、ノートにしてほぼ十冊、各行にびっしりと書きつらねていった俳句は、日記にかわる「自己形成の記録」なのであった。』

 もっとも中学時代は俳句にあまり関心を持っていなかったようで、親友の詠んだ俳句が地方新聞に掲載された事による競争心から俳句に熱中しだしたのが真相のようです。

 高校3年に「蛍雪時代」へ投稿した句。 (中村草田男選で二席に入選)

       便所より青空見えて啄木忌 

 生涯に次の4句集を出しています。
 「われに五月を」(昭和32年)、 「わが金枝篇」(昭和48年)、 
「花粉航海」(昭和50年)、 「わが高校時代の犯罪」(昭和55年)。
 また「寺山修司の俳句入門」も著しています。

        <寺山修司俳句抄>       

       電球に蛾を閉じこめし五月かな
       秋風やひとさし指は誰の墓
       わが死後を書けばかならず春怒濤
       父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
       暗室より水の音する母の情事
       心臓の汽笛まつすぐ北望し
       家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
       蛍火で読みしは戸籍抄本のみ
       絹糸赤し村の暗部に出生し

       台詞ゆえ甕の落葉を見て泣きぬ
       わが夏帽どこまで転べども故郷
       秋暁の戸のすき間なり米研ぐ母
       他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
       莨(たばこ)火を樹で消し母校よりはなる
       軒燕古書売りし日は海へ行く
       車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
       燕の巣母の表札風に古り
       目つむりても吾を統ぶ五月の鷹

       流すべき流燈われの胸照らす 
       さんま焼くや煙突の影のびる頃
       鵞鳥の列は川沿ひがちに冬の旅  
       葱坊主どこをふり向きても故郷
       私生児が畳をかつぐ秋まつり
       卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ
       屋根裏に吊す玉葱修司の忌
       胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲

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2009年3月17日 (火)

★ 彼岸入り。 ★ 青木月斗忌。

 今日3月17日は彼岸の入りですね。

     雑貨屋に樒榊や彼岸入  加藤暢一

 正岡子規は 「毎年よ彼岸の入に寒いのは」 と詠みましたが、少し風が吹いているものゝ晴天にて暖かい日となりました。 午後2時前の我が部屋の温度計は16.8℃を指しています。     

 3年前、『★終い彼岸』(2006年3月24日)にて「彼岸」の記事を載せた事がありますが、その時は3月も24日に拘らず「寒い日が続いている」と書いていますから、子規の句は今でも通じるようです。
 彼岸に関する季語を例句と共に少し詳しく述べていますので、もし宜しければ下記をクリックの上 ご覧下さい。
           ↓
      ‘ ★ 終い彼岸 ’


        ゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜


 また今日は俳人青木月斗の忌日です。 鶯忌とも呼ばれます。
 詩情溢れる句風にて大阪新派俳句界の雄と言われました。 晩年は山水老人との別号も。
 正岡子規は 「俳諧の西の奉行や月の秋」 と詠んで関西での青木月斗の活躍を称えています。

 辞世句は

     臨終の庭に鶯鳴きにけり  青木月斗 

 明治12(1879)年11月20日、大阪市東区南久太郎町生まれ。 
 昭和24(1949)年3月17日、奈良県大宇陀町にて没。 
 享年69歳。 本名は新護。
 明治27(1894)年 阪薬学校に入学しましたが中退、家業の青木新護薬房を継承。 
 後に廃業して俳句に専念。

 明治30年暮より俳句を始めます。 正岡子規に師事。 
 明治32年10月 『車百合』 を創刊するも3年で廃刊。
 妹が河東碧梧桐の妻に、また実子も碧梧桐の養女になっています。

 大正 9年俳誌 『同人』 を創刊主宰。
  『同人』 は昭和19年に一度廃刊されますが、川瀨一貫らによって東京に發行所を移し昭和21年復刊。 現在は有馬籌子氏が主宰しておられます。

 <俳句抄>
    春愁や草を歩けば草青く
    天心あり今年の寒厳し
    囀つて囀って野を曇らしぬ
    初春や氷魚滑かに舌の上
    行年や空地の草に雨が降る
    人こまぬ夜汽車なれども凍てにけり  
    カナリヤの鳴き止まばこそ日の永き
    秋の暮近所探して子の居らぬ
    池尻の藻や花白き夕月夜
    横になれば眠ってしまふ蟲遠音 
    開帳の寺覗き行く野かけ哉

    川行水山に夕つつ光りけり 
    北風や浪に隠るゝ佐渡島
    聖旦や蒼生の賀に 
    春惜む酒中の天地さむる時 
    百合の蕾狐の顔に似たる哉
    菊の燭風露動いて瞬す
    嵯峨硯磨って時雨の句を止む
    ささ波や志賀の太湖の秋の晴
    我庭は梅の落花や初桜
    其棚に泣きかたりたる雛のぬし
    彼岸会や南に霞む天王寺

    春の雪楼上に見る川青き
    雲飛べば野は雪近し梅の花
    江の島の風雨に春の寒さ哉
    田楽を焼く火起しぬ桃の陰 
    桃提げて伏見の戻り夕月夜
    山里や日が暮れてより春の闇
    汝が妻は椿の花の島少女
    中国の探題なれやさくら鯛 
    舟行や青螺を縫うて風薫る
    渓川に沿うて入りけり山茂り
    あるじ塗りし壁とよ冬の趣に

    春酒満酔尚も許さず鯛茶漬
    日本に一つの山や雪初日
    蕪村忌や蕪村の像を誰が作る
    老師一喝狸乍ち油壷
    雪霏々と夜半の都の燈哉
    時鳥朝夕べに山三日
    飈々と天巻き地まく風や夏
    秋風の夜すがら鬼哭啾々と
    蟲しぐれ酒の睡りがつきにけり 
    今年水年蟻が畳にのぼりゐし
    太閤の余憤とばかり残炎に
  
    父が魂もみ国を護る身にぞしむ
    江戸橋に立ちて水見る夏めきぬ   
    風鈴の音そはへゐる大雨哉
    草いきれ笠の中なる顔襲ふ
    行平にたく粟粥や今朝の秋
    秋水に須落したる顔洗ふ
    内堀に映る櫓や風光る
    雨蛙鳴きくるるに雨降らず 
    雨蛙汝一人ぬれ色に
    盞に火蛾は金沙を降らしけり
    旅暑し難行苦行打重ね
 
    竹林に鶏白し秋の風
    萩伏して霖雨やうやく霽れんとす  
    大陸に南の海に大初日  
    断々乎断々乎たり冬の雷
    東風万里昭南島は生れたり 
    山中居雪中居夜は狐鳴く
    初午の佐多山雪の飛びにけり  
    煎薬の匂ひ親しく春めきぬ
    南座は誰来てゐるや床涼み
    蟹の子の此処にも遊ぶ湯殿かな
    藷掘て麦の用意や片山家

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2008年12月12日 (金)

★ 鈴木六林男忌

 ここ数日暖かい日が続きます。 今日も夜9時半の室温は16℃。
 しかし明日から低気圧の影響で気温が下がり、この日曜日にはまた冷え込むとの予報が出ていました。

 今日12月12日は俳人 鈴木六林男の忌日です。 平成16年肝不全で大阪府泉大津市の病院にて逝去。 享年85歳。 
 大正8年9月28日 大阪府泉北郡山滝村(現岸和田市)生まれ。 本名は次郎。

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 17歳の若さで鈴木六林男は俳句を詠み始め、20歳で戦前 新興俳句の拠点であった「京大俳句」に投句。 運動の旗手の一人で東京在住者の代表格であった西東三鬼に師事し、無季俳句を多く作りました。
 (西東三鬼については2006年4月 1日に記事にした事があります。 
  宜しければ 『 ★ 三鬼忌 』 をクリックの上ご覧下さい。)

 戦時中、中国・フィリピン等に従軍して辛酸を舐め、フィリピンのバターン・コレヒドール要塞戦で負傷して帰還。
 フィリピンでの戦場句集「荒天」を昭和24年に発表して世に知られるようになりました。
 「荒天」の代表句

    遺品あり岩波文庫『阿部一族』     六林男

 「荒天」の各項目の始めの句のみ挙げておきます。

    送る歌産院の高き窓よりも
    背嚢おもくひとりづつおりる
    弾痕街熱風に兵を叱る声
    長短の兵の痩身秋風裡
    壕を掘る秋夜の風に背を吹かれ
    瞑れば弾子散らばる地の起伏
    暁の鶏鳴とどく秋の軍隊
    愛遠し雪のたそがれを渇きゆく
    大陸に別るる雪の喇叭鳴り
    うつうつと砲音に午ひるが来てゐる
    いつ死ぬか―樹海の月に渇きゐる
    風を聴き夕日の金きんに染まつてゐる
    低き逓伝負傷者来る道をあけ!
    蜿蜒と炎炎と灼け雲を置く
    個個にゐて大夕焼に染りゐる
    瞑れば谷流れ血の赤きなど

 彼の身体には戦場での鉄の破片が入ったままだったそうです。

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 戦後は山口誓子の「天狼(てんろう)」創刊に参加。
 1950年代の社会性俳句が盛んな折にも活躍し、以降俳句界の第一人者として高く評価されています。

  昭和46年「花曜」創刊主宰。
  昭和32年 「吹田操車場」などにて現代俳句協会賞  
  平成7年 「雨の時代」で蛇笏賞
  平成14年 現代俳句大賞 受賞。
  元大阪芸大教授。 元現代俳句協会副会長。

 代表句は

    天上も淋しからんに燕子花  六林男  (燕子花 カキツバタ)

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 その他の句も少し挙げておきます。

    はや不和の三日の土を耕せる
    暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
    五月の夜未来ある身の髪匂う
    春の山やくざの墓に風あそぶ
    全病むと個の立ちつくす天の川
    何をしていた蛇が卵を呑み込むとき 
    さみだるる大僧正の猥談と
    血を売って愉快な青年たちの冬
    深山に蕨採りつつ滅びるか
    八十八夜都にこころやすからず
    わが死後の乗換駅の潦
    脚冷えて立ちて見ていし孤児の野球
    バレンタインの消えない死体途中の花
    直立の夜越しの怒り桜の木
    旅人われに雨降り山口市の鴉
    向日葵に大学の留守つづきおり
    泥棒や強盗に日の永くなり
                          .

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2008年11月25日 (火)

★ 三島由紀夫忌

 昨日は久し振りに終日の雨でした。
 今日は晴天で明けたものゝ、午後になって曇が多くなり照り翳りしています。13時半の室温計は17.5℃とここ暫くの内では暖かいほうですが、風もあり冬めく感じです。

 11月25日は作家 三島由紀夫の忌日です。
 1970(昭和45)年の今日、三島由紀夫が楯の会メンバーと自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入し、自衛隊のクーデターを呼びかけて割腹自殺した事件はまだゝゞ生々しく記憶に残っています。享年45歳。

 三島由紀夫は1925(大正14)年1月14日 東京生まれ。 本名 平岡公威(きみたけ)。 小説家・戯曲家。
 昭和22年 東京大学法学部(旧制)を次席で卒業後、大蔵省事務官に任官。
 しかし翌23年、「近代文学」の同人となり大蔵省を辞職。 

 昭和24年には『仮面の告白』を発表し 作家としての地位を早々と築きます。
  『禁色』 『潮騒』 『金閣寺』 『豊饒の海』などにて日本を代表する小説家となり、戯曲では『サド侯爵夫人』 『わが友ヒットラー』 『近代能楽集』などが有名。 

 角川大俳句歳時記には三島忌・由紀夫忌・憂国忌と載っていますが、「貴族趣味の傾向があった三島は、俗の文芸である俳句にはほとんど関心を示していない」と触れていました。

        埒もなき深夜のテレビ三島の忌  暢一


 三島由紀夫に魅かれる俳人は多いようで、以下のように沢山の例句が見られます。

    三島忌の赤きを愛す馬の鞍        磯貝碧蹄館
    三島忌の朝つぱらから木枯しす      山田みづえ
    三島忌や腐りやすきに國も亦       高橋睦郎
    三島忌や空のプールに日の差して    片山由美子
    三島忌の男美学の首飾          井沢正江
    三島忌や造花の薔薇に棘のあり     内田美紗
    三島忌の背をあづけたき樹もあらず    橋本榮治
    おむすびの芯なにもなき三島の忌    橋本榮治
    激流に紅葉且つ散る三島の忌      伴真澄
    三島忌や書棚の奥の古日記       長田一臣

    三島忌に爪の先まで酔ふてをり     北光星
    三島忌や抜かれゆく血の五六本     岩田須磨子
    三島忌の夕日晒しの蓮の骨        林香燿子
    ぺーパーナイフ静かに使ふ三島の忌   雨宮きぬよ
    文学館の絨緞赤し三島の忌        上野澄江
    三島の忌顳酒の巡りをり          林省吾
    三島忌や多弁の鸚鵡少しよごれ     上西兵八
    ペン胼胝の上にペン胼胝三島の忌    田中忠子
    三島忌の赤き布干す寺院かな       柿本多映
    三島忌の帽子の中のうどんかな      攝津幸彦

    落日を朝日とまがう由紀夫の忌      五島高資


      松籟の闇にたかまる憂国忌        鷲谷七菜子
      憂国忌列を乱してゐるは誰ぞ       八田木枯
      定型詩ばかりのノート憂国忌        皆吉司
      天☆に石のつぶてや憂国忌        磯貝碧蹄館
      憂国忌朝より鵙を鳴かすべし        河野南畦
      乃木坂をとよもす軍歌憂国忌        池上いさむ
      少年の耳輪の揺れや憂国忌        黒川江美子
      死に様の美学もありし憂国忌        藤田よしお
      アロワナの鱗の微光憂国忌        堀安由記子

      爆ぜさうな石榴の一つ憂国忌       近藤明美    
      黒板をねんごろに消し憂国忌       柏原眠雨
      憂国忌止まつたままの砂時計       墳崎行雄
      裂き織に赤の一すじ憂国忌        兵野むつみ
      憂国忌ドールは瞳開きしまま        高島征夫
      てのひらの白きはまれり憂国忌      秦夕美
      憂国忌どこかで靴の音しきり        石崎素秋
      かけちがふボタンどこまで憂国忌     増田史

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2008年11月 6日 (木)

★ 石川桂郎忌

 昨日の穏やかに晴れ渡った好天から一転して 今日は今にも降り出しそうな曇天。 
 室温計も正午現在で18℃と少し低めです。

 本日11月6日は俳人 石川桂郎の忌日です。

      水底も紅葉を急ぐ桂郎忌  神蔵器
 
 1975(昭和50)年没。 享年66歳。
 ・ 俳誌 「風土」 主宰。
 ・ 第1回俳人協会賞(昭和36年)を句集 『含羞』 にて受賞。
 ・ 第9回蛇笏賞(昭和50年)を受賞。

 また随筆家・小説家としても活躍しました。
 ・ 第25回読売文学賞随筆・紀行賞(昭和48年)を 『俳人風狂列伝』 にて受賞。
 ・ 第32回(昭和29年/1954年下半期)の直木賞候補。 『妻の温泉』 にて。

 石川桂郎は明治42年 東京三田の生まれ。 本名 一雄。
 高等小学校卒業後 家業の理髪店を継ぎ 昭和11年に店主となりますが、その翌年の昭和12年に石田波郷主宰の「鶴」が創刊されて参加します。
 また随筆が永井龍男に認められ 後に横光利一に文学を学びました。

 俳句や小説に夢中になった彼は昭和16年理髪店を廃業してしまいます。 
 そして翌年、小説 『剃刀日記』にて理髪師を描き、ラジオでも放送されるなど評判となりました。
 戦後、俳句総合誌「俳句研究」 「俳句」 の編集長を歴任した後、昭和39年に俳誌「風土」を主宰。
 昭和50年に66歳で食道癌のため死去。
 闘病中の下記の句は特に有名です。

      粕汁にあたたまりゆく命あり  桂郎

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      麗らかや今日はどの道とほらうか  暢一

 石川桂郎の句には思い出があります。 掲句は私の初心の頃のものです。 
 師 岡本眸先生のご添削は
  『石川桂郎先生に前例がありますので このスタイルは損です』 との事。 
 もちろん没に致しましたが、初心者の悲しさ、石川桂郎の事は存在すら知りませんでした。

 そこで前例と仰る句を歳時記や俳句関係の書物で捜しました。 師や先輩達に尋ねれば教えてくれたでしょうけれど、甘えたくはありませんでしたから…。
 どんな句か また季語どころか季節すら分かりませんから苦労しました。 インターネット等はまだ存在しない時代です。
 やっと見付けたのが下記の句。

      昼蛙どの畦のどこ曲らうか  桂郎

 今になって思えばかなり有名な句です。 知らなかったとは云え止むを得ませんね。
 以来 石川桂郎は私にとって身近な存在となりました。
     
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  <石川桂郎 俳句抄>
       
     三寒の四温を待てる机かな
     理髪師に夜寒の椅子が空いてゐる
     仲見世の裏行く癖も十二月
     塗碗に割つて重しよ寒卵
     朝顔や境内浅く鬼子母神
     つまらなく夫婦の膝の柿二つ
     柿青し鏡いらずの鬚を剃る
     釣堀がこんなところに雨の旗
     疲れ鵜の瑠璃の泪目なせりけり
     ラムネ抜く音の思ひ出三田訪はな
     町中に寺の灯ともる針供養

     入学の吾子人前に押し出だす
     十円の銭の音なる社会鍋
     父の忌の朝より母の懐炉灰
     冬菜売老の眼鏡の紐むすび
     屑屋来て昼起さるる一葉忌
     剃刀の思ひ出話添水鳴る
     新宿に会ふは別るる西鶴忌
     水薄くすべりて堰や赤とんぼ
     原爆の日の病む手足洗ひをり
     おしめりや朝顔市に人減らず

     一つづつ分けて粽のわれに無し
     黒々とひとは雨具を桜桃忌
     膝でたたむ干物蕗の煮えこぼれ
     友来れば病をかくす古茶の缶
     憲法記念日裏町長屋見透しに
     裏がへる亀思ふべし鳴けるなり
     指切つて血がとまらぬよ四月馬鹿
     雪女彳たせし井水汲みにけり
     鳥総松女子理髪師に顔ゆだね
     買初にかふや七色唐辛子

     独酌のごまめばかりを拾ひをり
     ひこばえや山羊追ふごとく子を追ひて
     曇天の花重たしや義士祭
     旗鳴つて雛市立てり畦のくま
     左義長や婆が跨ぎて火の終
     風の子が駈けすぎしより鍬始
     酒断つて万歳寒きラジオ切る
     河豚鍋や水面のネオン雨に痩せ
     柚子湯して妻とあそべるおもひかな
     柿の枝の影につまづく雪月夜

     夏祭水田水田を笛ころび
     婆ひとり稲穂に沈む鎌の音
     金魚売けふゐて明日をゐあはすや
     激雷に剃りて女の頸つめたし
     父の忌や二枚あはせの海苔あぶる
     遠蛙酒の器の水を呑む
     洗面の水の痛さの遠雪崩
     銭湯や煤湯といふを忘れをり
     西鶴忌人に疲れて帰り来る
     十六夜の妻は離れて眠りをり

     臥すわれに微熱の如く花合歓は
     棕梠味くや暗きところに暗き顔
     蟻地獄女の髪の掌に剰り
     太宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ
     昼寝子や生れし日のごと髪濡れて
     激雷に剃りて女の頸つめたし
     青梅雨の深みにはまる思ひかな
     河童忌や水の乱せし己が影
     ゆめにみる女はひとり星祭
     高蘆のなかゆく道や桃青忌

     
     みこまれて癌と暮しぬ草萌ゆる
     点滴に縛られし月登りけり

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2008年10月30日 (木)

★ 尾崎紅葉忌 (十千萬堂忌)

 好天で始まった今日ですが、午後になって曇天となりました。 室温計は午後4時前にて21℃。

 今日 10月30日は小説家 尾崎紅葉の忌日です。
 1903(明治36)年 胃癌の為 36歳で死去。 思っていたよりも早世だったので驚きました。

       難題を課してたのしむ紅葉忌  山口青邨
       紅葉忌舞台の裏に修しけり   石川春象


 尾崎紅葉は 「多情多恨」 「金色夜叉」 などで有名な明治の文豪ですが、熱心な俳人でもありました。
 以下 角川俳句大歳時記の紅葉忌(坪内捻典氏記)を参考にしつゝ略歴を記してみます。

 『慶応3(1867)年 江戸生まれ。 帝国大学中退。
 大学予備門の学生時代に山田美妙らと文学結社 硯友社を興し、機関誌『我楽多文庫』を発行。 
 明治22年(1889) 「二人比丘尼色懺悔」が出世作となり、同年 読売新聞社に入社。
 明治23(1890)年に硯友社の巌谷小波などと俳句結社「紫吟社」を結ぶ。 
 明治28年には角田竹冷らと「秋声会」を結成、正岡子規たちに対抗する新派俳壇のリーダーとして活躍。』

 俳号は十千萬堂。 紅葉忌は十千萬堂忌とも呼ばれます。 

 辞世の句は

       死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき 

   ____________________________________________________________________________________________

   <尾崎紅葉 俳句抄>
       
       昼中の盃取りぬあらひ鯉
       雨の庭萩起し行く女かな
       ちく~と潮満ち来るや芦の角
       春の日の巡礼蝶に似たるかな
       雨来らんとして頻りに揚る花火哉
       鶏の静に除夜を寝たりけり
       人訪へば梅干して居る内儀哉
       水飯や簾捲いたる日の夕
       蚊帳の月美人の膝を閑却す
       雨を帯びて麗はしの粽到来す

       鬼燈も紅葉しにけり緋金巾
       切符買うて手毎にかざせ初紅葉
       垣結ふや竹の落葉を払ひつゝ
       鮎看るべく流聴くべく渓の石
       口あいて佐渡が見ゆると涼みけり
       夏衣碓氷の雨の灑ぐかな
       我背子が来べき宵なり玉子酒
       年玉やものものしくも紙二帖
       襤褸市は曇りて雨の甲斐秩父
       鍋焼の火をとろくして語るかな

       茜掘夕日の岡を帰りけり
       近道や茨白うしてうす暗き
       泣いて行くウエルテルに逢ふ朧哉
       猿曳の猿を抱いたる日暮かな
       小机に載せてこそあれ初暦
       歯固や鼠は何を食む今宵
       初空やその薄色の三枚着
       露霜や蓬生の宿に人病めり
       混沌として元日の暮れにけり
       北向やこんこん叩く厚氷
       
       花嫁の手を憐むや茎菜漬
       月に棹して生簀の鱸見て帰る
       秋深き燈も憂きに細るげな
       深山木や斧に湿ふ秋の雲
       鶺鴒の尾を振りきそふ早瀬哉
       茹菱の切先出たり紙袋
       優しさよ梨なんど剥く手元さへ
       秋もはやさらばさらばと落し水
       枝少し鳴らして二百十日かな
       鳴き交ふや買ふて来た虫籠の虫

       蕈に深山のおどろおどろしきを思ふ
       星既に秋の眼をひらきけり
       枝豆を人待顔にたぶるかな
       ごぼごぼと薬飲みけりけさの秋
       気壮んに行く秋などの何ともな
       ばさばさと刈られ終んぬ花薄
       芋虫の雨を聴き居る葉裏哉
       自転車の汗打かをる公子かな
       揉瓜や四十男の酒を妻
       市に見る今朝の胡瓜や小指ほど

       散る傍に牡丹の魂の迷ふかな
       炎天や誰が子はだしの放し飼
       暮かぬる門や嫁入のざんざめく
       星くひにあがるきほひや夕雲雀
       秋を出て夕暮通る舟一つ
       十三夜酒なき宿をたゝきけり
       夕雲雀天を貫く穴や星
       雲に濤にさそ歌あらむ秋の人
       笛の音や誰とも知らす秋の人
       赤きもの食ひ~行きぬ秋の人
       俳諧の骨拾はうよ枯尾花

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2008年10月26日 (日)

★ 高浜年尾忌

 今日はしょぼしょぼとした雨の一日となりました。
 昨日より更に冷え込んで、夕暮れの今 室温計は18.8℃を指しています。 この秋で一番低い気温かも知れません。

 今日10月26日は俳人 高浜年尾の忌日です。 1979(昭和54)年没。 
 享年78歳。 高浜虚子の長男。 また星野立子の兄です。
 (星野立子については一昨年に取り上げました。 宜しければ 「立子忌 (雛忌)」 をクリックしてご覧下さい)

    大切な看護日誌や年尾の忌   坊城 中子
    年尾忌の十月桜咲きそめて    山口青邨
    月欠ける早さよ年尾忌も過ぎて 山田弘子


 年尾は本名にて正岡子規が名付け親だそうです。
 学生時代から俳句に親しみ、昭和13年に俳誌「俳諧」を主宰創刊。
 芦屋市に住み関西俳句界の中心的存在でした
 また昭和26年以降は「ホトトギス」の雑詠選者となり、 虚子より主宰を引き継ぎます。虚子の没する8年前の事でした。


    < 高浜年尾 俳句抄 >
 
    なつかしき父の故郷月もよし 
    六甲の端山に遊び春隣
    山門をつき抜けてゐる冬日かな    
    竜安寺池半分の菱紅葉
    咲き充ちてアカシヤの花汚れたり
    又花の雨の虚子忌となりしかな
    旅に出て春眠足りし思ひかな
    妹がりの初句会とて五六人
    師走はや心斎橋の人通り   
    青き踏む毛馬閘門のほとりまで

    安国寺様の傘借り花の雨
    紅葉冷えして下呂の湯は熱からず
    皆去りぬ焚火育ててゐるうちに
    遠き家の氷柱落ちたる光かな
    凍江や渡らんとして人遅々と
    カーテンの動いてゐるは隙間風
    渤海の凍てし渚の忘れ汐
    咲きそめて一輪久し冬椿
    わが旅の紅葉いよ~濃かりけり
    花びらの日裏日表紅蜀葵

    立ち上る一人に揺れて船料理
    鰭酒や逢へば昔の物語
    菊枕かくて老いゆく人の幸
    九頭竜に辣韮洗ひの屑流れ
    桑海や大夕立あとなほけぶる
    雛の間の更けて淋しき畳かな
    八荒の波の昃りのうつりゆく
    お遍路の美しければあはれなり
    朝の間の 初凪とこそ 思はるる
    時代祭 華か毛槍 投ぐるとき

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2008年10月21日 (火)

★ 志賀直哉忌

 爽やかな秋晴れです。
 今年は例年なく冷え込む秋と思っていたら、10月も半ばを過ぎてから暖かい好天が続きます。

 今日10月21日は志賀直哉の1971(昭和46)年の忌日です。
 昔 神戸在住の折 商用で毎月のように城之崎温泉に宿泊していた縁もあって、「城の崎にて」の作者である志賀直哉には親近感を覚えます。

   漆黒の列車は北へ直哉の忌     櫂未知子
   孤をふかみゆく鹿のこゑ直哉の忌  橋本榮治
   塔頭に咲く直哉忌のほととぎす    大島民郎
   テラスから夜の始まる直哉の忌   矢内涼人
   奈良山も粧ひそめし直哉の忌     足立行子

   

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2008年7月 2日 (水)

★ 岸風三樓忌

 伊勢地方の今年は雨の日が少なく曇り日の多い梅雨ですが、今日は晴れ間となりました。 室温計は正午前にて27.8℃と少し蒸し暑く感じます。

 今日 7月2日は俳人 岸風三樓の忌日です。 
 岸風三樓先生は明治43年7月9日岡山県生まれ。 本名 周藤二三男。
 昭和57年7月2日没。 享年71歳。

 以下の句などが有名にて代表句と言えるでしょう。

     手をあげて足をはこべば阿波踊  風三樓
     門に待つ母立葵より小さし     
     戦後長し汗の鞄を今も抱き
     さるすべり四十の詩は身をもって
     月明けのいづくや悪事なしをらむ
     時の日の朝より水を荒使ひ


 関西大学法科卒業後逓信省に入り、昭和6年 「若葉」 の富安風生門に。 「若葉」 の編集長を長く務め、またヒューマニズムに立脚した生活俳句を唱えて 「春嶺」 を創刊主宰し、若い作家の育成に当たりました。

   ____________________________________________________________________________________________


 富安風生門であった岡本眸先生は 「春嶺」 にも拠って風三樓先生の教導を得、日記のように俳句を詠むと云う作句姿勢に大きな影響を受けたようです。
 岡本眸先生は昨年の蛇笏賞受賞後の著書 「栞ひも」 で次のように触れておられます。

 『平凡な私にとって、人生の真実は日常些事の中にある。 生活の中に落ちこぼれている詩片を、丁寧に拾いあげて詠おう、と私は思うようになった。 
 この考えは当初、それほど確かな意識であったとは思わない。 生活派俳人、岸風三樓先生との出会いを経て、句作の過程で固まっていったのだと思う。』

 『風三樓師は私たちに向って常に 「俳句は一人称の詩である」 と説いた。 作品の中には必ず 「私は」 という言葉が含まれているものだというのである。 主語の曖昧な句を作ると、「句集を編むときその句をどうするのか。 句集に残せないような句を作っては無駄だ」 と厳しく叱責された。 そして 「俳句は作者の履歴書である」 と繰り返し説かれたのである。』

 また 「栞ひも」 には風三樓先生の絶句として次の句を記しています。

     六月の夢の怖しや白づくし     風三樓     
     泰山木仰ぐ躬を寄せ過ぎゐたる

   ___________________________________________________________________________________________


 関西在住の風三樓先生は熱狂的な阪神タイガースフアンであったようで、次の句を残しています。

      ナイターも終り無聊の夜となりぬ  風三樓

 この句にについて夫人が俳人協会編 「脚注名句シリーズ・岸風三樓集」 にて以下のように述べていました。

 『プロ野球の好きな主人、ナイターの夜は時間ぎりぎりに駆け戻り、服も脱がないでテレビの前に陣取る。 息子は巨人、主人は阪神贔屓で互いに口をとがらして応援する。 負ければ相手方の悪口をたたきながらそれぞれの部屋に引上げてやっと静かな夜となる。』

   ___________________________________________________________________________________________ 


 9年前の事ですが 以下の鑑賞文を寄稿した事がありましたので載せてみます。

 
     露寒の握りて厚き手なりしよ   岸風三樓

 俳句は己の心の記録である、と思っている。 だから、もし句集を編んだ折には自分が呼吸をしている今の世相が通読して背景に匂うような句集でありたい。
 個々の句を抽出した場合は兎も角として、極端な表現をするならば明治時代なのか今の時代に詠んだ作品なのか分からぬような句集では困るのである。
 
 さて掲出の風三樓先生の句は昭和41年の作。
 昭和30年前後より社会性俳句の論争が活発となり、戦前「京大俳句」にも加わり

     軍需工業夜天をこがし川涸れたり  風三樓

等の作品を残している風三樓先生にとっても無縁であったとは思われぬが、しかし先生は社会性を匂いとして感じさせながらも独自の人間性豊かな作風にて 「生活派」 と称される。

 例えば

     戦後長し汗の鞄を今も抱き  風三樓

は昭和33年作。深く感銘し共鳴する所以である。 
                                    
   ___________________________________________________________________________________________


 <その他岸風三樓 俳句抄>

     静と書き母の名なりし時雨けり   
     歯固や甘えごころに母のもと
     菜を間引き来たりし母の顔濡れて
     大いなる月の出でゐし桃畠
     桃の丘桃より他の花を見ず

     夏となる官吏おのれの鞄古り
     戦前派たり蜩に目つむれば
     吏なべて貧しく桜枯れにけり
     わが憤怒あはれマスク曇らひぬ
     梅雨くらし昼よりいでむ勤む身に
     俗吏とし老いメーデーの列にあり
     夜も暑し仰臥の脚を高く組み
     わが四十白靴よりも疲れぬる
     羽抜鶏よりも無惨と思ふ日よ
     結氷や危機寸前の身を愛せ
     鉄板を踏めばごぼんと秋の暮
     焼酎や頭の中黒き蟻這へり
     キャベツ抱きをれど幸福とも見えず      
     汗ぬぐふ厨や妻に肘押され
     あたらしき年の一声妻に向き
     懐妊や金銀灯し聖誕樹    

     夾竹桃咲きの盛りの翳もたず
     青芭蕉すでに満身創痍なる
     泰山木けふの高さの一花あぐ
     泰山木咲かまく厚葉押しあぐる
     鶏頭の枯れたるといへ立てりけり
     斜めに斜めにとびて蝗の死期近き
     いっぴきといへど遊べる蟻ならず
     兜虫いまさら逃ぐる意志もなし
     菜殻焼き鴉の一生不遇なり
     春来ると雀や胸毛ふくらまし
     金亀子うたれし直後とも見えず
     露まみれなるこほろぎのもう跳べぬ
     寒雁の行方やあまりにも高し

     新涼や毬のごとくに少女らは
     処女眠し金雀枝遠く咲き満てば
     立ちて受くる青年の礼初風呂に
     成人式コンクリートに菫咲き
     夏来ると胸より黒子とび出たる
     座礁船遠方にあり腋下剃る
     大胆といふ美しき海水着
     タンクトップ八方怖る何もなし
     躬を離れすなはちブーツ倒れけり

     一歩だに退くを許さず阿波踊
     雪吊りの心棒としてまづ立ちぬ
     朝の空掃きしごとくに朴咲きぬ
     散る花に手を拍ち老年たらむとす
     風強くして山吹の咲きいでし
     大きな朱樂押さへられゐてナイフ受く
     微熱あり午後は枯木に雲動き
     深吉野や花あるかぎり日の高き
     花の上のかなたの花をこころざす     

     天寿とは他人の言や梅寒し
     風生先生矍鑠として電波の日
     鴨川や師在せば畦に梅も咲き
     師に甘ゆ猫の憎しや室の花

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2008年5月29日 (木)

★ 橋本多佳子忌

 昨日の夕刻よりの雨が今日正午現在でも強く降っています。 室温計は21℃にて素足が冷えます。 

         緑さす素足の冷えをひとり言  岡本眸


 今日 5月29日は歌人 与謝野晶子の忌日です。 1942(昭和17年)没。

 俳人では4T(橋本多佳子・星野立子・中村汀子・三橋鷹子)と呼ばれ賞された内の一人である橋本多佳子の忌日です。 多佳子忌として歳時記にも載っています。

 橋本多佳子は 「天狼」同人。 「七曜」主宰。 本名 橋本多満(生家姓 山谷)。 
 1899(明治32)年 東京生まれ。 1963(昭和38)年5月29日 64歳にて没。
 
 大正6年に橋本豊次郎と結婚して九州小倉市に住む。 
 同じく小倉に住む杉田久女に俳句の手ほどきを受けつゝ 高浜虚子の「ホトトギス」に所属。 昭和4年 大阪帝塚山に移住。 
 やがて山口誓子を師と仰ぎ、誓子と共に「ホトトギス」を離れて水原秋桜子の「馬酔木」同人となる。

 昭和12年 38歳にて夫と死別、戦争の為に奈良県伏見町へ疎開して定住の地に。
 戦後、西東三鬼等と共に山口誓子主宰の「天狼」創刊に尽力し、「馬酔木」を辞す。 
 昭和25年 「七曜」主宰。


 略歴は以上の通りですが、独自の華麗で情緒豊かな作風が高い評価を得た屈指の女流俳人でした。 

         雪はげし抱かれて息のつまりしこと
         雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
         夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
         息あらき雄鹿が立つは切なけれ
         雄鹿の前吾もあらあらしき息す
         月光にいのち死にゆくひとと寝る

 掲句のように夫への恋句でも有名な俳人です。 「月光に」は夫が亡くなる時の句。
 同じく小倉市出身の松本清張に杉田久女をモデルにして小説 『菊枕』があり、遺族による裁判沙汰になった事は知られていますが、清張は橋本多佳子をモデルに短編ですが『花衣』と云う小説も書いています。 久女の場合と違って好意的な記述振りです。 
 多佳子は美貌の俳人としても知られていました。

         雪はげしき書き遺すこと何ぞ多き

が最期の句と言われています。


 作品を少し挙げてみます。

         乳母車夏の怒濤によこむきに
         麦秋や乳児に噛まれて乳の創
         祭笛吹くとき男佳かりける
         祭笛うしろ姿のひた吹ける
         一ところくらきをくぐる踊の輪
         いなびかり北よりすれば北を見る
         星空へ店より林檎あふれをり    
         泣きしあとわが白息の豊かなる

          歌かるたよみつぎてゆく減らしゆく
          深裂けの石榴一粒だにこぼれず
          硯洗ふ墨あをあをと流れけり
          七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ
          凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ
          あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ
          螢籠昏ければ揺り炎えたたす
          月一輪凍湖一輪光あふ

           雪の日の浴身一指一趾愛し
           つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため
           花万朶皮膚のごとくに喪服着て
           曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ
           わが行けば露とびかかる葛の花
           罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき
           仏母たりとも女人は悲し灌仏会
           きりきりと帯を纏きをり枯るる中

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2008年4月 9日 (水)

★ 三橋鷹女忌(4/7)。 野澤節子忌(4/9)。

 今日は無風好天、実に穏やかな春日となりました。午後3時前の室温計は19.7℃。
 昨日の東京は暴風雨にて羽田空港がストップするなど大変だったようですね。
 伊勢でもその前日が大荒れにて名所である宮川堤の桜を一気に散らしてしまいました。

 4月7日は尾崎放哉忌、三橋鷹女忌。
    8日は高浜虚子忌(椿寿忌、惜春忌)。
    9日は野澤節子忌(桜忌)。と著名俳人の忌日が続きます。

 尾崎放哉については一昨年に取り上げました。
 下記をクリックの上宜しければご覧下さい。
          ↓
     『 ★ 放哉忌 』

 高浜虚子は余りにも有名ですので、三橋鷹女と野澤節子について少し取り上げてみます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 『三橋鷹女

 三橋鷹女は本名三橋たか。 明治32年12月24日千葉県成田市生まれ。 昭和47年4月7日 72歳にて逝去。
 昭和20年の少し前くらいから俳人として中央俳壇で活躍し、山本健吉が三橋鷹女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子を当時の女流俳人を代表する4Tと名付けて賞賛した事は有名です。

 娘時代は兄が師事していた若山牧水・与謝野晶子等に短歌を学びましたが、結婚後夫の影響で俳句を詠むようになります。 昭和3年より「鹿火屋」主宰の原原石鼎に師事するものゝ、昭和9年に退会。 他結社の同人になった事もありましたが、昭和13年以降はいずれの結社にも依らず独歩の地位を築き、昭和28年より富沢赤黄男・高柳重信の「薔薇」に参加して活躍しました。

 三橋鷹女の代表句は

            鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
            夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
            この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
            秋風や水より淡き魚のひれ            

 等ですが、これらの句からも窺えるように、激しい気性を持っていた俳人のようですね。
 他の主要句も少し挙げてみます。

            つはぶきはだんまりの花嫌ひな花
            炎天に泣き濡れてゆく蟻のあり            
            きしきしときしきしと秋の玻璃を拭く
            薄紅葉恋人ならば烏帽子で来
            暖炉灼く夫よタンゴを踊ろうか
            暖炉昏し壺の椿を投げ入れよ
            みんな夢雪割草が咲いたのね
            蔦枯れて一身がんじがらみなり
            詩に痩せて二月渚をゆくはわたし
            囀や海の平を死者歩く
            笹鳴に逢ひたき人のあるにはある
            老いながら椿となつて踊りけり
            白露や死んでゆく日も帯締めて

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 『野澤節子』 

 野澤節子は大正9念3月23日神奈川県横浜市生まれ。 平成7年4月9日 75歳にて逝去。
 大野林火に師事。 「蘭」創刊主宰。 
 十代より患った脊髄カリエスで長い闘病生活を送りつゝ 強い意志を持って活躍した俳人でした。 彼女の俳句の出発は闘病中の「精神の純白の生地を、外的障碍によって決して引裂かれまい」という願いに基づくものであった事は知られていますが、第七句集「八朶集」には山本健吉が「定家と世阿弥と心敬と利休が願った幽玄と艶との別乾坤は、野澤さんが眼前に所期する世界だろうか」との讃を寄せています。

 野澤節子の代表句は

             さきみちてさくらおをざめゐたるかな
             せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ
             曼珠沙華わが去りしあと消ゆるべし


 野澤節子主宰の訃報が告げられている「蘭」には彼女の句も発表されていました。 
 辞世句と言ってもよいのでしょう。

             雛かざる一と間は紅の色あふれ
             雛飾る波瀾万丈とは言へず
             雛の瞳にわが世鎮めて在すかな

 他の句も少し挙げます。

             天地の息合ひて激し雪降らす
             遠の枯木桜と知れば日々待たる
             春曙何すべくして目覚めけむ
             朝はたれもしづかなこゑに寒卵
             母は見しと一車の薔薇の街ゆくを
             畳の上の一日母の日と思ふ
             わが門の蛍袋を誰もいふ
             われさらふ風の落花のいづこより
             行く先の夢の渚にひとと逢ふ

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2008年2月28日 (木)

★ 坪内逍遥忌

 夜の10時を過ぎても火の気の無い部屋の室温計は12.3℃と少し気温が緩みました。

 今日 2月28日は逍遥忌。 
 小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者の坪内逍遥の1935(昭和10)年の忌日です。
 角川俳句大歳時記にも逍遥忌として載っていますが、要領良く解説していますので、以下に抜粋してみます。

 「逍遥忌
  逍遥は安政6年(1859) 今の岐阜県生まれ。 「小説神髄」で勧善懲悪、荒唐無稽な物語を否定し、リアリズムの小説を提唱した。 二葉亭四迷、正岡子規などがその小説論に影響を受けた。 後半生の逍遥は早稲田大学を拠点に演劇活動に力を注ぎ、シェークスピアの翻訳や研究でも知られた。 晩年に俳句を作ったが、「小説神髄」では俳句などの日本の短詩は未開の世の詩歌だと論じた。(坪内稔典氏記)

     学窓に糸の一すぢ逍遥忌  伊藤敬子                     」 
 

 以上の様に俳句とも縁のあった坪内逍遥でした。 
 没後ですが昭和30年に 「 歌・俳集 ~坪内逍遥 短歌・俳句集~」が、平成10年に「柿紅葉 ~坪内逍遥の和歌と俳句~」(財団法人逍遥協会編)が出版されています。 

 以下 逍遥の句です。

     初かがみ眉の白髪をかぞへけり
     骨ばかりとなりても招く尾花かな
     もとの婢の子を連れてくる秋日和
     冬籠り画も描いてみたき茶目気あり
     駄にあえぐ馬人ならば勲位あらむ
     極楽の島つ岩根の初日の出
     やゝ癒えて降り立つ庭の桜かな
     何蟲かバトンを揮るぞ蝉しぐれ
     書きぞめの乾かぬ程やしたりがほ
     秋風や寸ほど延びし頤の鬚

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2008年1月17日 (木)

★ 阪神淡路大震災忌

 伊勢地方の昨日は寒さも少し弛みましたが、今日の室温計は日中も10℃前後で推移して冷え込みました。
 今日1月17日は阪神淡路大震災忌。 6千5百人近くの方々が犠牲となられた大震災から もう13年経ちました。

 一昨年の記事にて阪神淡路大震災忌と季語について記した事があります。
 その折に鷹羽狩行氏が阪神淡路大震災忌を省略して阪神忌を季語にしたいと提唱しておられ、主に関西の俳人による例句も見られたので 私は賛同しかねる由の意見を述べました。

 しかし平成19年9月発行の角川大歳時記には関西震災忌・阪神忌・阪神淡路震災忌にて季語に収録されており、挙げられていた例句は下記のように全て阪神忌で詠まれていました。
 俳句界で季語として定着さえすれば私にも異論は無いところですが、どうも未だ賛否両論のようです。
 提唱者の鷹羽狩行氏の句は調べてみましたが見付かりませんでした。

           阪神忌天幕の灯は野外ミサ   小路紫峡
           沈黙といふ祈りあり阪神忌    池田琴線女
           今ここに句座にあること阪神忌  藤田翔青
           買ひおきに六甲の水阪神忌    北村和子

     ----------------------------------------------------

 一昨年の記事を再掲載してみます。

 『 同じく大被害をもたらした近年の阪神淡路大震災の忌日については「阪神忌」を季語として詠む例が見られますが、地名に忌を付けただけでは意味を成さず 「阪神震災忌」 とすべきだとの異論もあり季語と認知されている訳ではなさそうです。
 もし関東大震災忌の事を関東忌と言ったりすれば関東の人にとって違和感を拭えないでしょう。 関西に長く居た私自身は阪神忌にどうも馴染めません。 第一 阪神タイガースフアンに怒られそうです。

 ただし、俳句に詠み込み易いように省略した「震災忌」 が既に関東大震災の忌日を指す以上、季語として認知されている「広島忌」の例もある事ですから、詠み込み易く「阪神忌」を季語として認めてもよいのではとの意見にも頷けるところはあります。 難しいところです。
 でも「阪神忌」に違和感を覚える私としては、少し文字数が多くても 「阪神震災忌」 と詠むか 又は他に季語を斡旋するかせざるを得ないのは仕方の無いところでしょうか。

 神戸に長く在住していた事があり、震災3年目の1月17日に震災被害からも少し落ち着きを取り戻した神戸の友人達に招かれて追悼に訪れました。
 その折に何句か詠みましたけれど、既に鷹羽狩行氏の提唱もあり「阪神忌」を季語として詠んでいる俳句も結構見られた時期でしたが、やはり季語として使いたいとは思いませんでした。
 「阪神震災忌」 の9文字は流石に詠み込み難いので他の季語を斡旋しての句です。


           初旅や遠き日住みし神戸まで     暢一
           冬ざれの車窓見つづけなほ飽かず
           震災の事も笑顔で新年会
           熱燗や友の頭白く吾の薄く
           手袋を脱ぎ追悼の記帳待つ               』

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2007年12月30日 (日)

★ 横光利一忌

 朝 一時の冷たい風雨で震え上がりましたが、風は残っているものゝ後は段々と晴れてきました。
 歳末も押し迫った小晦日の今日 12月30日は小説家 横光利一の1947(昭和22)年の忌日です。
 歳時記にも横光忌または利一忌として載っていて季語になっています。

 横光利一は1898(明治31)年 福島県生まれ。 早稲田大学予科時代から小説を書きだし 1923(大正12)年 「日輪」 「蠅」にて文壇に登場。 
 以降 川端康成などと共に新感覚派と呼ばれた事で著名な小説家ですが、晩年は俳句にも傾倒し 600句程が全集に残されています。
 晩年と言っても49歳で没した横光利一ですからまだ若かったのですね。
 横光門の句会には石田波郷や石塚友二なども参加してしていたそうです。

         横光忌齢ばかりが先師踰ゆ  石塚友二
         横光忌黙契いよよ頑に     石田波郷


 横光利一の代表句は

         蟻台上に餓ゑて月高し 
    

 その他の句も少し列挙してみます。

         妹と見し紅梅の枝折れてをる
         紅梅を見るや吾妹の顔変る
         白梅のりりしき里に帰りけり
         蝶二つ飛び立つさまの光かな
         廻廊の雨したたかに白椿
         何もなく過ぎしがごとし春の雲
         花冷や眼薬をさす夕ごころ

         日の光り初夏傾けて照りわたる
         膝抱きて旅の疲れや白あやめ
         梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに
         紫陽花に霧くづれ舞ふ強羅の灯
         茉莉花の香指につく指を見る
         芍薬を売り残したり花車
         静脈の浮き上り来る酷暑かな

         ショパンなほ続く妹の秋の薔薇
         十五夜の月はシネマの上にあり
         地下鉄に水流れ入る日蓮忌
         白菊や膝冷え来る縁の先
         秋の夜や交番の人動かざる

         風花や石みなまるく水に入る
         靴の泥枯草つけて富士を見る
         ふるさとを遠ざかりたる氷かな
         横綱と顔を洗ふや冬の宿
         ささ鳴きの枝うつりゆく夕ごころ         
         繭玉に金色の風ゆらぎ立つ

     --------------------------------------------------------
                            (参考文献 角川俳句大歳時記。)

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2007年11月 8日 (木)

★ 京極杞陽忌

 今日11月8日は「立冬」です。昨年は11月7日が立冬でした。年によって違いますから要注意ですね。
 
       歩道橋登るや町の冬に入る  加藤暢一

       跳箱の突き手一瞬冬が来る  友岡子郷
       


 また俳人「京極杞陽」の忌日でもあります。
 「木兎」主宰。
 1908(明治41)年2月20日生。
 1981(昭和56)年11月8日没、享年73歳。
 東京都生まれ、「ホトトギス」同人。 

       春風の日本に源氏物語
       秋風の日本に平家物語

の二句を並べて発表した事などで知られ、洒脱な持ち味のある俳人でした。
 他の句も少し抜粋してみます。

       性格が八百屋お七でシクラメン
       美しく木の芽の如くつつましく
       ほうたるの草を離れて遊行かな
       ロココ美として極まれる薔薇もあり
       大衆にちがひなきわれビールのむ
       蝿とんでくるや箪笥の角よけて
       伐られたる竹やしづかに倒れゆく
       早子いふ秋晴の不二よかりしと
       大阪の冬日やビルにひつかかり     
       青天に音を消したる雪崩かな
       マスクして彼の目いつも笑へる目
       街中のしだれ柳も霧氷して
       立ちどまるたびに近づき雪女郎
       貧乏は幕末以来雪が降る
       妻いつもわれに幼し吹雪く夜も    

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2007年3月26日 (月)

★ 誓子忌

 すっかり春らしく麗らかな晴天となりました。
 今日 3月26日は誓子忌。 
 俳人 山口誓子の忌日です。 平成6(1994)年 92歳にて逝去。  

 山口誓子は京都市生まれ。 14歳にして俳句を詠み始めたそうですが、三高文化乙類に入学後 「京大三高俳句会」で日野草城の指導の下に本格的な作句活動に入り「ホトトギス」に投句。
 大正11年 東大法学部に入り、水原秋桜子・富安風生・山口青邨らと「東大俳句会」を結成。 また4Sと称えられた内の一人として活躍しました。
 近代俳句の新時代を切り開いたのは水原秋桜子と山口誓子であったと言っても過言ではありません。

 山本健吉も名著「現代俳句」でこの事に触れていますので、少しだけ引用してみます。

 『秋桜子の「葛飾」時代の句、誓子の「凍港」前半(昭和3年ごろまで)の句は、近代俳句の黎明となった。 比較すれば、秋桜子のほうがより短歌的・抒情的・詠嘆的であり、誓子のほうがより構成的・知的・即物的であるが、その調べや叙法にはさまざまな共通点があり、ともに在来のさびとかしおりとかいった古い俳句臭と袂別して、大胆に新しい近代的スタイルを樹立したものである。
 二人のうちどちらが先に試みたかわからないが、おそらく机を並べて相互に切磋琢磨した結果と思われ、二人とも手近な手本として、歌壇における「アララギ」派の万葉調運動の成功を意識し、そのような改革の俳壇における実現を目ざしていたに違いない。 そしてそのような改革的意気が、4Sのなかでも二人の存在を華やかなものに印象づけた。そして誓子は秋桜子以上に大胆に特異な題材を手がけ、虚子をして「辺塞に武を行る征虜大将軍」と言わしめたのである』

 この山本健吉の評は次の句に添えられたものです。 「流氷」は今でこそ春の季語として一般的に詠まれますが、誓子のこの句によって定着したのでしょう。

        流氷や宗谷の門波荒れやまず   


 山口誓子は肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間三重県の四日市市や鈴鹿市に居住していました。その折の事だろうと思いますが県内の鈴鹿工業高等専門学校の校歌の作詞をしています。 

        つきぬけて天上の紺曼珠沙華
        海に出て木枯帰るところなし
        炎天の遠き帆やわが心の帆
        万緑やわが掌に釘の痕もなし

等の俳句に親しむ人なら誰でも知っている名句の多くがこの地で詠まれています。

 その内 5年間住んでいた鈴鹿市白子の「鼓ヶ浦海岸」は誓子が主宰した「天狼」の俳人にとって聖地のような所となっています。
 余談ですが、ここ白子はロシア漂流で名を知られる「大黒屋光太夫」の地元でもあります。 白子を出港して遭難漂流した事から苦難のロシア経験をすることになったのです。

 誓子も大黒屋光太夫を身近に感じたのでしょう。 次のような句を詠んでいて句碑が建っています。

        舟漕いで海の寒さの中を行く
 
 
 また誓子は伊勢参宮を毎年欠かしたことがなく、志摩賢島で年を越した上 伊勢神宮に初詣をするのを常としていましたので伊勢とも縁が深く、伊勢神宮内宮前のおかげ横丁には「誓子記念館」があり、そして赤福本店やその他伊勢市内や周辺に多くの句碑が建っているなど、三重県伊勢市在住の私にとってはとても身近な存在の俳人です。

 伊勢地方に建つ誓子句碑を下記に列挙してみます。

   巣燕も覚めゐて四時に竈焚く    伊勢市 赤福本店
   日本がここに集る初詣          〃  春秋園
   孫右衛門西向き花のここ浄土      〃   宮川堤 松井孫右衛門人柱
   知盛の谷水田とし植田とす       〃   矢持町 久昌寺 (平家村)

   春潮に飛島はみな子持島      二見町 池の浦荘
   炎天の遠き帆やわが心の帆      〃   山口歯科 潮松庵
   真珠筏入江の奥に年迎ふ        〃   伊勢パールセンター
   初富士の鳥居ともなる夫婦岩      〃   興玉神社

   礼拝す佛のために咲く桜       度会郡玉城町 広泰寺   

   初日出て三つ島が置く三つの影  鳥羽市 鳥羽グランドホテル
   百年を守護の青峯山青し        〃  鳥羽商船高等専門学校
   初凪に島々伊良湖岬も島        〃  戸田屋別館
   差し出でゝ崎々迎ふ初日の出      〃  鳥羽展望台
   真珠島白葉牡丹も真珠なり       〃  御木本真珠島

   葉月潮伊雑の宮をさしてゆく     志摩市 的矢湾大橋
   遠近に靈山ありて初ゴルフ        〃   賢島カントリークラブ
   高き屋に志摩の横崎雲の峯       〃  志摩観光ホテル
   五月波寄せ来て砂の浜揺れる      〃  旅館ひろはま荘

 一地方にこれほど多くの句碑が建つ俳人は他に類を見ないでしょう。 調べていて私も驚きました。 

   
          伊勢の海に見ゆる帆のなき誓子の忌
.

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2007年3月 3日 (土)

★ 立子忌 (雛忌)

 暖かい日が続きます。 今朝は曇り空で始まりましたが昼前から晴れて、いつもの室温計も午後になって16.5℃を指しています。

 今日3月3日は雛祭。 
 そして立子忌です。 雛忌(ひなのき)とも。
 高浜虚子の次女 星野立子の昭和55(1984)年の忌日です。 80歳にて没。 


 星野立子は明るく柔らかな句風にて花鳥諷詠の一分野を形成した俳人と言われ、虚子は『純粋な情感の天地に住まっている立子の句は自然が柔らかくその懐にとけ込んでくるように感ずる』と評しています。
 また山本健吉は名著「現代俳句」で『ありふれた日常語の使用や軽い口語的発想は、立子の一つの特徴をなすもので、虚子の句が持っている即興詩的一面を、立子は承けついでいると言えよう』と述べています。

 山本健吉はその「現代俳句」で正岡子規から永田耕衣まで42名の俳人を取り上げていますが、その内女流俳人は 杉田久女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子の4名に過ぎません。
 俳句史上に於いて如何に星野立子を重要視していたかが窺えます。


 以下に星野立子の句を少し挙げてみます。

        昃れば春水の心あともどり
        たんぽぽと小声で言ひてみて一人
        美しき緑走れり夏料理
        障子しめて四方の紅葉を感じをり

        しんしんと寒さがたのし歩みゆく
        大仏の冬日は山に移りけり
        秋深きことにこと寄せ話すかな
        朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ 
     

 昭和5年に主宰誌「玉藻」を創刊しましたが、女流俳人が主宰誌を持つのは初の事でした。 「玉藻」は現在 立子の長女である星野椿氏が継承しています。


        立子忌を終へし安堵に雪の降る  星野椿
.

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2006年12月 1日 (金)

★ 三橋敏雄忌

   Img_1715


 好天ですが風の強い日です。 昼過ぎの室温計は13.5℃。 
 空も裏山も心なしか薄々と寒さを感じる雰囲気です。


 今日は俳人 三橋敏雄の忌日です。 平成13(2001)年、81歳にて没。
 東京都生まれ。 運輸省公務員。 山口誓子、西東三鬼に師事。 「断崖」 「天狼」 「面」 「俳句評論」 同人。
 句集に『畳の上』 『まぼろしの鱶』 『真神』 『青の中』 『弾道』 『鷓鴣』 『巡礼』 『太古』 『長寿』 『しだらでん』 『三橋敏雄全句集』。
 

 14歳で俳句を始め戦時中の新興俳句俳人として17歳の頃には既に頭角を現していた俳人でした。 
 当時は無季の句が主にて師の山口誓子が 「私は無季の句を詠むつもりはないが、もし詠むとすればこう云った方向性で詠むかもしれない」 と云う意味の事を言って絶賛した事は有名です。
 昭和13年に 「戦争」 と題して発表した連作を指しての事にて、三橋敏雄18歳の頃の作品ですから恐るべき早熟さです。 数句を抜粋してみます。

     
          射ち来たる弾道見えずとも低し
          砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
          そらを撃ち野砲砲身あとずさる
          戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
          あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ

      
 昭和23年から7年間句作を中断するも、昭和30年 「俳句」 誌上に<熱帯戦跡行>四十句を発表して作句を再開しますが、以降は有季の句が主になりました。
 昭和42年に第十四回現代俳句協会賞、平成元年に第二十三回蛇笏賞を受賞しています。

 以下代表句抄です。

          戦争と畳の上の団扇かな
          あやまちはくりかへします秋の暮
          いつせいに柱の燃ゆる都かな
          かもめ来よ天金の書をひらくたび
          ぶらんこを昔下り立ち冬の園

              太陽のあがれる春を惜しみけり
              海へ去る水はるかなり金魚玉
              長濤を以って音なし夏の海
              京しぐれ前の世のはるか後の世も
              打水や落つる日落つるところあり 
                  
                   鬼赤く戦争はまだつづくなり
                   秋の暮柱時計の内部まで
                   観桜や昭和生れの老人と
                   定時制教室さくら片明り
                   表札は三橋敏雄留守の梅
                   飯白し八月十五日正午

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2006年10月 4日 (水)

★ 素十忌

 今日も曇り。 明日はまた崩れそうです。 ここのところ室温計も23℃前後で推移しています。 仲秋真っ只中と云った感じです。
 最も11月初旬に立冬を迎えますから歳時記で10月は晩秋に分類されていますが。


 今日10月4日は 「素十忌」 。 俳人 高野素十の忌日(昭和51年)です。 
 秋櫻子・誓子・青畝・素十で4Sと言われ活躍した俳人ですね。


            方丈の大庇より春の蝶  高野素十


は誰でも知っている名句ですが、京都の竜安寺での作と言われています。


            甘草の芽のとびとびのひとならび  高野素十


 虚子は絶賛しましたが、草の芽俳句、ただごと俳句と揶揄されたりして賛否両論の極端な評を得ている句です。
 

 素十は明治26年茨城県山玉村生まれ。 本名 興己。
 一高を経て東大医科卒。 新潟医科大学長、新潟大学医学部長、奈良医科大教授等を歴任した医学畑の俳人です。

 彼の有名句を少し挙げてみます。

            
            蟻地獄松風を聞くばかりなり
            歩み来し人麦踏をはじめけり
            門涼みかかる夜更に旅の人
            街路樹の夜も落葉をいそぐなり
            打水や萩より落ちし子かまきり
            くもの糸一すぢよぎる百合の前
            朝顔の双葉のどこか濡れゐたる
            まつすぐの道に出でけり秋の暮
            ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
            づかづかと来て踊子にささやける
            翅わつててんたう虫の飛びいづる
            また一人遠くの蘆を刈りはじむ
            蘆刈の天を仰いで梳る
            生涯にまはり燈籠の句一つ

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2006年10月 2日 (月)

★ 宗鑑忌

Img_8448 昨日からの雨が降り続いています。 昨日の少し強い雨と違ってしとしとゝした小雨です。 我が部屋の温度計は昼過ぎにて22.6℃。 素足が少し冷えます。


 今日10月2日は 「宗鑑忌」。 
 室町・戦国時代の連歌師 山崎宗鑑(1465?~1553?)の忌日です。 但し旧暦での忌日ですから、新暦では11月22日にあたります。

 山崎宗鑑は雅の道の連歌を離れ俗の世界の俳諧を推奨して俳諧撰集 「犬筑波集」 等を編纂し、伊勢の神官 荒木田守武と共に俳祖と呼ばれています。 
 ただ 「守武忌」 はポケット歳時記でも載せていますが、「宗鑑忌」 は私の手元の季語収録最多をうたい文句にする大歳時記にも収録されていませんでした。 季語だけを列挙した冊子にかろうじて載っているだけでした。 何故なのでしょうね。

 同じ平易な言葉で俗の世界を詠んだと言えども、美意識を残している守武と比べて、手の込んだ洒落と卑俗奔放な宗鑑の句風は江戸時代の滑稽・戯れの行き過ぎた俳諧を思わせて現代俳句界から重視されていないのでしょうか。


           元日や神代のことも思はるる  荒木田守武
           うつつきてねぶとに鳴や郭公  山崎宗鑑


 守武の句は伊勢神宮の元日を詠んでいて説明の必要もありません。

 宗鑑の句は今の我々にとってこのまゝではよく理解出来ませんが、 「卯月来て音太に鳴くや郭公」 と書き直して表記すると判りますね。 なお「郭公」 は 「ほととぎす」 と読みます。
 ところがこの句は 「根太(腫瘍の事)が痛んで泣いている郭公(守武)」 との意味を持たせた洒落なのです。
 友人である守武が腫瘍にかかっているのをからかって詠んでいるのです。

 宗鑑の句をもう一句。

           風寒し破れ障子の神無月  山崎宗鑑


 「郭公」の句も季重なりですが、現代から見てもま~許せる範囲です。
 でも 「風寒し」の句 は季語だらけで なんともはやと思う句です。
 これも言葉遊びの句です。 「破れ障子」 から 「紙が無い」 を連想して 「神無月」と洒落た訳です。

 今から500年も前、和歌・連歌しか存在しなかった時代に初めて萌え出た俳諧の芽と考えれば、芭蕉から近代以降の作句の基本など遠い未来の事にて、宗鑑・守武のこれらの句は歴史的に重要な句と言えるのでしょう。 三句共 各地に立派な句碑があります。


 当時、宗鑑と云う名の人が3人は存在していたようで資料的に紛らわしく、山崎宗鑑については年代に?を付けたように不明な事が多いようです。
 近江の国(滋賀県草津市)の出身と云われ、室町幕府の九代将軍に仕えた武士ながら、将軍の死をきっかけに身分を捨てゝ連歌風狂の世界に身を置きます。
 山崎に「對月庵」を結び長く住んだ事から 「山崎宗鑑」 と呼ばれるようになりました。 
 京に出て油を終日売り歩き帰庵するのを日課としていたようですから、生活には苦労していたのでしょう。
 大阪府島本町山崎に 「宗鑑旧居跡」 「宗鑑井戸」 の遺跡があります。


             有難き姿拝まんかきつばた  松尾芭蕉


 掲句の芭蕉の句はよく知られていますが、宗鑑の遺跡を訪ねた折に詠まれた句です。 私が時折拝見している「芭蕉DB」で下記の解釈がなされています。

 『その昔、近江公は、痩せこけて乞食のような山崎宗鑑がカキツバタを取っているのを見て、「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」と詠んだという。その哀れな姿はカキツバタならぬガキツバタだというのである。しかし、私はそんな風狂の宗鑑こそありがたい人であり、カキツバタに宗鑑の姿を写していま一面のカキツバタを見ている。芭蕉の乞食趣味の表出である。 』

           
 晩年は讃岐の国(香川県観音寺市)の興昌寺に 「一夜庵」 を結びそこで生涯を終えたそうです。 享年89歳。


      宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとようがありてあの世へといへ


が辞世ですが、晩年 「よう(できもの)」 を患いそのために命を失うことになる宗鑑は辞世でも言葉遊びをしています。

 
 「一夜庵」 は宗鑑が客人の泊まるのを一夜しか許さなかった事からの名だそうです。
 彼の没後、荒れ果てていた一夜庵を江戸時代の俳人達が再興させ、虚子達も訪れて句を残しています。


          宗鑑の墓に花なき涼しさよ       高浜虚子
          松の奥には障子の白きに松      荻原井泉水
          浜から戻りても松の影ふむ砂白きに  河東碧梧桐

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2006年9月18日 (月)

★ 露月忌

 台風13号はまだ日本海側で猛威を奮って進みつゝあるようです。
 風の強さには驚かされましたが、被害を受けた各地の方々に心よりお見舞い申し上げます。 
 伊勢は昨日より強く降っていた雨も止み陽が射し出しました。 いつもの室温計は30.7℃と久し振りに30度台となりむっとする蒸し暑さです。


 今日は「露月忌」。 石井露月の忌日です。
 秋田生まれにて本名は祐二。 昭和3年没。享年55歳でしたからまだゝゞ惜しまれる年齢でした。

 文学を志して上京、日本新聞の記者となり、正岡子規と親しく日本派俳壇の中心となった俳人ですが、のちに帰郷して医院を開業、また俳句誌「俳星」を創刊して子規俳句を広め東北地方の重鎮として活躍しました。
 「露月山人」と号したので「山人忌」。 南瓜の愚鈍を好み「南瓜道人」とも称したので「南瓜忌」とも呼びます。

 昨日の「鬼城忌」と言い、子規派の重鎮の忌日が続きますが 奇しくも明日9月19日は「子規忌」ですね。


          子規も知る人と露月をまつりけり 佐藤杏雨
          寂寞たる乾坤や南無南瓜仏    中野三允
          秋風の道はるかなり山人忌    樋渡瓦山

   ______________________________


Img_8200 石井露月の俳句を季節別に抽出してみます。
 漢学趣味の露月らしい句も見られますが、殆どが平易な言葉で詠んでいて子規の影響の強さを窺わせます。


          松の内面白き手紙来る事よ
          窓の日や手毬の唄の夢心
          我家の水音に年新たなり
          年玉のかずかずに灯や枕元

          春立や蒲団清らに雨を聴く
          こまごまと垂氷す春の暁に
          離愁とは土筆の如きものなるか
          龍天に黄帝の御衣翻へる  

          月の暈牡丹くづるゝ夜なりけり  
          村の子の草くぐりゆく清水かな  
          大いなる泉を控へ酒煮かな  
          朝日子をそびらに負うて矢数かな  
          村塾に鮓を圧す因つて詩を講ず  
          編笠や人に知られし面魂  
          抱籠や碧紗を隔つ夜の空  
          恋もなき草刈共や虎が雨  
          露涼し木末に消ゆるはゝき星  

          秋の蛍女は夜を淋しがる     
          我庭の月や籾する隣あり  
          椎の実の八升ばかりこぼれける  
          唐黍の風や秋社の戻り人  
          瓢一ツいつ迄もいつ迄も下りけり  
          風北に変り豆引働きぬ  
          卓上や菊の盃菊の酒  
          暮に出でゝ萩咲けるあたり人恋し  
          夕風やさいかちの実を吹き鳴らす  

          月西へ寒念仏の声遠くなり  
          うつむきてしぐるるままや馬の上  
          むらしぐれ幾たび馬の躓きぬ   
          寝ぬる頃少し残りし炭火かな  
          洗はざる葱買ふて山に帰るかな  
          方正を守る豆腐や狸汁  
          張りつめし氷の中の巌かな 
          帰りつけば妻は大根引きて居り 

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2006年9月 1日 (金)

★ 震災忌 木歩忌

 今日 9月1日は 「震災忌」 ですね。
 俳句では単に 「震災忌」 と詠めば 「関東大震災忌」 の事を指し、秋の季語になっています。


        震災忌向あうて蕎麦啜りけり  久保田万太郎


 同じく大被害をもたらした近年の阪神淡路大震災の忌日については「阪神忌」を季語として詠む例が見られますが、地名に忌を付けただけでは意味を成さず 「阪神震災忌」 とすべきだとの異論もあり季語と認知されている訳ではなさそうです。
 もし関東大震災忌の事を関東忌と言ったりすれば関東の人にとって違和感を拭えないでしょう。 関西に長く居た私自身は阪神忌にどうも馴染めません。 第一 阪神タイガースフアンに怒られそうです。

 ただし、俳句に詠み込み易いように省略した「震災忌」 が既に関東大震災の忌日を指す以上、季語として認知されている「広島忌」の例もある事ですから、詠み込み易く「阪神忌」を季語として認めてもよいのではとの意見にも頷けるところはあります。 難しいところです。
 でも「阪神忌」に違和感を覚える私としては、少し文字数が多くても 「阪神震災忌」 と詠むか 又は他に季語を斡旋するかせざるを得ないのは仕方の無いところでしょうか。

 神戸に長く在住していた事があり、震災3年目の1月17日に震災被害からも少し落ち着きを取り戻した神戸の友人達に招かれて追悼に訪れました。
 その折に何句か詠みましたけれど、既に鷹羽狩行氏等の提唱もあり「阪神忌」を季語として詠んでいる俳句も結構見られた時期でしたが、やはり季語として使いたいとは思いませんでした。
 「阪神震災忌」 の9文字は流石に詠み込み難いので他の季語を斡旋しての句です。


           初旅や遠き日住みし神戸まで
           冬ざれの車窓見つづけなほ飽かず
           震災の事も笑顔で新年会
           熱燗や友の頭白く吾の薄く
           手袋を脱ぎ追悼の記帳待つ

     ____________________________

Img_7747
 「木歩忌」 については昨年に取り上げましたが、短文でしたので大幅に補足編集の上 下記に掲載し直してみましたのでご覧下さい。

 9月1日は木歩忌、境涯の俳人と呼ばれた「富田木歩」の忌日でした。
 山本健吉は「最短詩形の俳句においては、作品の世界が実生活に密着したところに創り上げられるから、あらゆる俳人は境涯の俳人と呼んでいいわけであるが、蕪村、誓子、風生等の作品をわれわれは境涯の俳句と呼ばない。近代ではわずかに村上鬼城と富田木歩とを、境涯の俳人と呼ぶことができるであろう」と言った意味の事を述べています。
 山本健吉著「現代俳句」をお持ちの方はぜひ富田木歩の項をご覧になってみて下さい。

 彼は鰻屋の四男として本所向島に生まれた江戸っ子ですが2歳の時に足が不自由となり、またその後洪水に巻き込まれて一家は極貧の生活を余儀なくされ、姉や妹が遊女として身売りされたりします。
 「木歩」 の俳号は不自由な足からのものです。
          
           背負はれて名月拝す垣の外


 身売りされた妹が宿下がりでの一時帰宅を詠んだ句です。

           居眠りもせよせよ妹の夜寒顔


 晩年(と云ってもまだ20歳代ですが)は結核を患い寝たきりになってしまい、やがて身売りされていた妹までもが結核を患い早世してしまいます。

           我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
           
           病む妹の枕ずれ云ふ春の暮
           医師の来て垣覗く子や黐の花
           涙湧く眼を追ひ移す朝顔に
           死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ      


 赤貧病床のうちに 関東大震災にて猛火の中を俳友に背負われて逃げましたが、隅田川の堤で享年26歳の若さにて大正12年9月1日落命しました。


           夢に見れば死もなつかしや冬木風


 上記の句碑が向島三囲神社境内に建っているそうです。

     ____________________________

 富田木歩が向島の実家に帰って一泊した折の随筆が 「俳句世界」 の大正6年6月号に掲載されていますが、久し振りに実家で過ごした喜びが窺えます。

 下記はその文章中の俳句を抽出したものですが、20歳の時の作品です。

          墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙
          行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり
          鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな
          杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
          新聞に鳥影さす庭若葉かな
          汽車音の若葉に籠る夕べかな
          躑躅植ゑて夜冷えする庭を忘れけり
          川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
          蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
          蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
          行く春や蘆間の水の油色
          青蘆に家の灯もるゝ宵の程

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2006年4月 8日 (土)

★ 放哉忌

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 朝から少し生暖かい風が吹いていました。 晴れてはいるのですが、空は黄色っぽく薄ぼんやりとしていました。
 黄砂の影響なのでしょう。 春の季語に「霾晦(よなぐもり)」がありますが、まさに黄砂で空が薄く曇ったように見える今日の事を言うのでしょうね。

 今日4月8日は高浜虚子忌、昨日4月7日は尾崎放哉忌 三橋鷹女忌と著名俳人の忌日が続きます。
 高浜虚子については今更述べる迄もない程周知の偉大な俳人です。
 そこで尾崎放哉について少し述べてみます。

 尾崎放哉は近年特に脚光を浴びている種田山頭火と双璧の自由律俳人でした。
 放哉は明治18年生、山頭火は明治15年生と同時代同世代の俳人ですが、二人共に高学歴ながら妻子を捨て自ら選んだ放浪の果てに逝ったと云う境涯もよく似ています。

 放哉は鳥取市生まれ。一高から東大法科を卒業し東洋生命保険に入社の後、朝鮮火災海上保険の支配人とエリートコースを歩みながら、突然財物も妻も捨てて俳句三昧の漂白に身を置きました。 酒と関東大震災の経験が彼の人生観を変えさせたと言われています。
 満州を放浪したり須磨寺の堂守として住み込んだりした後、最晩年に療養を兼ね小豆島の俳縁を頼って西光寺の南郷庵に移り住みます。 

          すばらしい乳房だ蚊が居る
          眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
          島の小娘にお給仕されてゐる
          あらしが一本の柳に夜明けの橋
          足のうら洗えば白くなる
          海が少し見える小さい窓一つもつ
          追つかけて追ひ付いた風の中
          山に登れば淋しい村がみんな見える
          壁の新聞の女はいつも泣いて居る
          風音ばかりのなかの水汲む
          淋しい寝る本が無い
          久し振りの雨の雨だれの音
          自分が通っただけの冬ざれの石橋
          月夜の葦が折れとる
          墓のうらに廻る
          
 小豆島に渡ってきた頃は元気にて比較的おおらかに句を詠んでいますが、段々に淋しい句が目立ちだします。
 師の井泉水などから厳しく言われていた禁酒の約にも背き、酒乱で騒動を起こして詫びに廻る様な不始末も仕出かしたりしますが、間もなくして病弱の上に風邪をこじらせてしまいます。

          咳をしても一人

 にもかかわらず貧困と禁酒も守れぬまゝに酒に溺れてしまう生活が翌年彼を死に追いやってしまいます。
 最後は衰弱しきって老漁師夫婦の手に抱かれながら逝ったそうです。 大正15年4月7日、享年42歳でした。

          窓まで這つて来た顔出して青草
          渚白い足だし
          貧乏して植木鉢並べて居る
          霜とけ島光る
          障子に近く蘆枯るる風音
          一つの湯呑を置いてむせてゐる
          春の山のうしろから煙が出だした
          やせたからだを窓に置き船の汽笛
          すつかり病人になつて柳の糸がふかれる
          肉がやせて来る太い骨である

 昔書いたものですが尾崎放哉の句の鑑賞文を「 句評・鑑賞 」に掲載しています。

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2006年4月 1日 (土)

★ 三鬼忌

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 ここ数日の冷え込みも緩んで比較的暖かい日となりました。

 今日 4月1日は三鬼忌。 西東三鬼の忌日です。
 三鬼と言えば 

          水枕ガバリと寒い海がある

の句を誰もが思い浮かべるでしょう。 三鬼にとって初期に詠んだこの句が名句として後世に残っているように、彼は俳句に手を染めて僅か数年で頭角を現した俳人でした。
 しかも俳句を作り出したのは30歳代半ばと云う往時の著名俳人の中でも晩学です。 
 彼はシンガポールで5年開業していた歯科医を時局や病気の為に続けられなくなり失意の内に昭和4年に帰国。 その後に俳人との縁が出来るまでは、俳句に興味を抱いた事すらなかったと述べています。
 俳句の伝統的な事にも興味が無く、また海外生活やその挫折が「言葉の魔術師」と称されるようになる特異な詠法の所以であるのかも知れません。

 でも三鬼は若い頃から乗馬、ダンス、ゴルフ、文学、音楽を趣味とし、特にダンスは教師の資格も持っていた程のダンディーで派手な性格の一面も持っていたそうです。
 帰国後に開いた歯科医院を止めて共立病院の歯科部長に就任した折も謹厳実直と云う訳でなく自分で「私は不忠実、不熱心な部長であった」と述べています。

 その歯科部長時代の昭和8年に、若旦那衆の雑俳の運座に無理矢理誘われて義理で嫌々参加しますが、その折に俳号をどうしますかと訊ねられて咄嗟に答えたのが「三鬼」の俳号の所以にて、「西東」は本名の斉藤をもじったものです。 俳句史に燦とその名を残す事になろうとは本人はその時思いもしなかったでしょう。 
 
 その年の終り頃に運座の世話役から俳誌「走馬燈」の同人を紹介されて本格的な俳句との縁を持つ事になりますが、翌年2月にはもう「走馬燈」の同人となって活躍しています。
 診察を待っている患者をほったらかしにして「走馬燈」の同人達との俳話に熱中していたそうですから、よほど俳句にのめり込んでいったのでしょう。

 また昭和9年6月号の「馬酔木」に

          ひそかなるあしたの雨に囀れる  三鬼

の一句が出ています。 「馬酔木」初入選の句ですが、後年の才気ある三鬼らしさはまだ見られないようです。
 馬酔木俳句会にも出入りする事でまだ学生であった石田波郷と知り合い、後年俳句弾圧事件の最中に不安から二人で夜な夜な飲み浸った事や、昭和15年 特高に三鬼が自宅から逮捕連行された折 三鬼宅に居た波郷はたまゝゝ出掛けており検挙を免れた逸話などが残っています。

 三鬼も
          機関銃弾道交叉シテ匂フ
          逆襲ノ女兵士ヲ狙ひ撃テ!
          パラシウト天地の機銃フト黙ル

と戦場の想像句を詠んだりした時期がありました。
 やがて  
          砲音に鳥獣魚介冷え曇る

等と京大俳句のメンバーとして戦争に批判的と思われるような句を詠む様になり、東京に新興俳句運動の中心となる「天香」を発刊していた三鬼が戦時下の特高から目を付けられるのは当然の成り行きでした。 責任者の平畑静塔始め京大俳句の殆どの会員や東京の三鬼の仲間達が次々と逮捕されても三鬼は中々逮捕されず本人自身訝り反って焦ったそうですが、今から見てみると当局は中心人物の三鬼をわざと泳がせていたのでしょう。 

 戦後は昭和23年の「天狼」創刊時、編集長として山口誓子を補佐し根源俳句を実践します。 
 後に総合俳誌「俳句」の名編集長としても名を馳せ、「現代俳句協会」、そこから分裂した「俳人協会」の設立にも貢献します。 俳人としては稀有なほど実にエネルギッシュで行動的な人物であったようです。
 晩年「断崖」を主宰し、昭和37年 62歳にて神奈川県葉山にて没しました。

 戦前の句

          水枕ガバリと寒い海がある
          緑陰に三人の老婆わらへりき
          別れきて栗焼く顔をほてらせる
          道化師や大いに笑ふ馬より落ち
          冬天を降り来て鐵の椅子にあり
          哭く女窓の寒潮縞をなし
          湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ
          空港なりライタア處女の手にともる
          空港の硝子の部屋につめたき手
          絶壁に寒き男女の顔並ぶ
          戀ふ寒し身は雪嶺の天に浮き
          
 戦後の句

          野遊びの皆伏し彼等兵たりき
          みな大き袋を負へり雁渡る
          倒れたる案山子の顔の上に天
          おそるべき君等の乳房夏来る
          中年や遠くみのれる夜の桃
          限りなく降る雪何をもたらすや
          枯蓮のうごく時きてみなうごく
          穀象の群を天より見るごとく
          柿むく手母のごとく柿をむく
          露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
          黒人の掌の桃色にクリスマス
          大寒や轉びて諸手つく悲しさ
          ひげを剃り百足虫を殺し外出す
          九十九里濱に白靴提げて立つ
          老婆来て赤子を覗く寒の暮
          まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる
          赤き火事哄笑せしが今日黒し
          大旱の赤牛となり聲となる
          身に貯へん全山の蝉の聲
          初蝶や波郷に代わり死にもせで
          炎天の犬捕り低く唄ひ出す
          秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ
          寒夜明け赤い造花が又も在る
          数限りなき藁塚の一と化す
          広島や夜陰死にたる松立てり
          広島や林檎見しより息安し
          広島や卵食ふ時口ひらく
          暗く暑く大群衆と花火待つ
          蓮掘りが手もておのれの脚を抜く

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2006年2月24日 (金)

★ 不器男忌

 朝からしょぼしょぼと雨が降っています。
 少し寒いものの春雨の雰囲気が感じられます。

 今日は
 「丈草忌」 江戸前・中期の俳人で蕉門十哲の一人・内藤丈草の1704(元禄17)年の忌日。
 
 そして「不器男忌」 芝不器男の1930(昭和5)年の忌日です。
  芝不器男は「彗星のごとく俳壇の空を通過した」と言われるように27歳で夭逝した俳人でした。

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな  
    人入つて門のこりたる暮春かな
    白藤や揺れやみしかばうすみどり
    寒鴉己が影の上におりたちぬ               〔己(し)〕

等が有名ですね。

 不器男は愛媛県松野町出身ですが、愛媛県文化振興財団が3年毎に「芝不器男俳句新人賞」を催していて最近30名の一次選考通過句が発表されたところです。
 40歳迄 100句の応募条件にて「新鮮な感覚を備え豊かな将来性を有する若い俳人に賞を贈ります」と載っており、3月19日に東京の砂防会館で最終選考会及び授賞式が開催されます。

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2006年2月22日 (水)

★ 風生忌

IMG_0761
 今にも降り出しそうなどんよりとした午前中でしたが、少し明るくなってきました。
 天候や気温に拘らずここ一週間程で少し春めいてきたような感じがします。

 今日は「風生忌」。 富安風生先生の忌日です。
 昭和54年2月22日午後1時6分にお亡くなりになりました。

      九十五齢とは後生極楽春の風  富安風生

が辞世句ですが、生涯の高弟であった岸風三楼が遺された風生先生の句帳から抽いて発表されたものです。
 まさに数え年95歳が享年となりました。

 風生先生は眸先生の師と云うだけでなく、愛知県三河のご出身ですから毎月岡崎を訪れる私にとっても親しみを覚える師でもあります。

      岡崎に師縁俳縁風生忌  暢一

 風生先生は中学生の頃 「名も聞かぬ片山里や梅林」 を新聞に投稿して入選された事もあったのですが、東大から逓信省に入省しての暫くは短歌の方に興味を持っていたようです。
 為替貯金局長として福岡に赴任して俳句と縁が出来る事になります。当時の九州俳壇は錚々たる俳人が競い合っており学友などの影響もあり朝から晩まで俳句三昧だったそうです。独身の地方支局長ですから暇も十分にあったのでしょう。
 30歳半ばの事ですから当時の著名俳人としては随分と晩学だった訳です。
 その頃の初心時代の句です。

      籾筵大河のへりに広げけり          初めて注目を浴びた句
      鍛冶の火を浴びて四葩の静かかな     ホトトギス初入選句
      朝寒の機関車ぬくき顔を過ぐ

 3年で東京に戻り「ホトトギス」でめきめきと実力を発揮して重鎮となり、やがて 「若葉」を創立等の以降は周知の事ですね。
 「若葉」創立後9年目52歳の時に逓信次官をあっさりと退官して以降一切の役職を辞し、本人曰く 「風鈴の下にけふわれ一布衣たり」 の生活に入ります。
 
 以上は勿論眸先生のお話からですが、眸先生が抽出した風生先生の代表句をほぼ年代順に記してみます。

      再びの春雷を聞く湖舟かな
      大文字夏山にしてよまれけり
      蝶低し葵の花の低ければ
      まさをなる空よりしだれざくらかな
      街の雨鶯餅がもう出たか
      退屈なガソリンガール柳の芽
      すずかけ落葉ネオンパと赤くパと青く
      夕顔の一つの花に夫婦かな
      蟻地獄寂莫として飢ゑにけり
      緑蔭を襖のうしろにも感ず
      秋風は身辺にはた遠き木に
      
      老いはいや死ぬこともいや年忘れ     古希の句
      生くることやうやく楽し老いの春
      勝負せずして七十九年老いの春
      一生の疲れのどつと籐椅子に       「傘壽以降」
      微笑もて戒めたまふ墓拝む         奥比叡の虚子塔にて
      立冬の月皎々と朴の槍
      数え日の欠かしもならぬ義理ひとつ
      こときれてなほ邯鄲のうすみどり
      余花の雨八十路の老のかんばせに
      野牡丹とかけてこころは濃むらさき
      朴落葉古き手摺に夫婦倚るり
      郭公のさも郭公といふ遠さ
      しみじみと年の港をいひなせる
      
      見つめをる月より何かこぼれけり      昭和52年作
      何かしら遠し遠しと年暮るる         以下昭和53年作
      凍蝶の縋りし石の動ぎなし
      妻よ生きよみんな生きよと笑ひぞめ

 ホトトギス時代以降の活躍もさる事ながら、老年期に於いても風生先生は魅力的な句を発表しつづけ、山本健吉に「老艶の世界」と称されました。
 以下掲句の他の代表句も少し抽いてみます。

      稲かけて天の香具山かくれたり
      一もとの姥子の宿の遅桜
      みちのくの伊達の郡の春田かな
      よろこべばしきりに落つる木の実かな
      籠にさせるものゝ意に秋深し               〔意(こころ)〕
      何もかも知つてをるなり竈猫
      この道の欅の落葉はじまりぬ
      きびきびと万物寒に入りけり
      萩枯れて音といふものなかりけり
      枯るるもの枯れ枯れ残るもの残る
      人われを椋鳥と呼ぶ諾はん
      本読めば本の中より虫の声
      一生の楽しきころのソーダ水
      わが生きる心音トトと夜半の冬
      夏山の立ちはだかれる軒端かな
      泡一つ抱いてはなさぬ水中花
      わが机妻が占めをり土筆むく
      山を見る一つ加えし齢もて

 こうして改めて眺めてみると何と多彩な句風なのだろうと感嘆しますが、表現の真摯にまたしみじみとある時は軽妙にとのさりげない捻り 句姿の美しさ リズムの確かさ等にまだまだ学ばなければと思わされます。          
      
 尚、10年前に寄稿した「一もとの姥子の宿の遅桜 富安風生」の鑑賞文を「句評・鑑賞」サイトに載せていますので宜しければご覧下さい。 ⇒ 「句評・鑑賞

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2006年2月21日 (火)

★ 鳴雪忌

 昨日になってしまいましたが2月20日は俳人の内藤鳴雪の1926(大正15)年の忌日である「鳴雪忌」です。
 鳴雪は老梅居と号していたので「老梅忌」とも言いますが、偶然とは云え忌日との符合には驚かされます。
 鳴雪忌は簡便な歳時記にも載っていますから、内藤鳴雪は俳句の歴史上欠かせない存在の俳人と云う事になるのでしょう。

 内藤鳴雪は子規門ですが子規よりも20歳の年上でありながら、松山藩士弟の寄宿舎の監督をしていた折に一舎生に過ぎなかった子規の影響を受けて46歳で弟子となります。
 以来その学識と人柄から子規の後見役とも目されて、子規の没後もホトトギスのみならず俳壇の徳望を集めた俳人にて、白髭と懐に何時も三オンスの酒瓶を忍ばせていた事などが有名で中々洒落た魅力的な人物であったようです。

 鳴雪の古希の折に虚子と碧梧桐その他の錚々たる俳人が能を演じて祝賀したのも有名な話ですが、俳人池内たかしは能家の出身にて叔父である虚子が能を演じる際にはらはらと気を揉んだ逸話が残っています。
 また普通であれば俳人の祝賀は何であれ句会を催すものですが、能会としたのには虚子と碧梧桐が俳句信条に於いて決別していたからなのです。
 鳴雪を祝うのに虚碧と並び称せられた二人が参加できるようにとの配慮からだったのですが、それ程に鳴雪は当時の俳壇で一番の重鎮だったのでしょう。

            おほかたの故人空しや鳴雪忌    高浜虚子
            この道をふみもまどはず鳴雪忌    富安風生

と流石に虚子も風生も主情的な句を詠んでいます。
 下記に内藤鳴雪の句抄を少し記してみます。

           したゝかに雨だれ落つる芭蕉かな
           稲妻のあとは野山もなかりけり
           屋根越に僅かに見ゆる花火かな
           花木槿弓師が垣根夕日さす
           寒声は女なりけり戻橋
           暁や溲瓶(しびん)の中のきりぎりす
           湖に山火事うつる夜寒かな
           後の雛うしろ姿ぞ見られける
           砂浜や松折りくべて蒸し鰈
           初冬の竹緑なり詩仙堂
           女一人僧一人雪の渡し哉
           人うめし印の笠や枯芒
           折りくべて霜湧きいづる生木かな
           滝殿に人あるさまや灯一つ
           朝寒や三井の仁王に日のあたる
           朝寒や通夜から戻る二人連
           灯のさして菖蒲かたよる湯舟かな
           盃の花押し分けて流れけり
           鳩吹の森の中道分れ行く
           矢車に朝風強き幟かな
           美しき蒲団干したり十二欄
           貰ひ来る茶碗の中の金魚かな
           爺婆の蠢き出づる彼岸かな
           輪飾や我は借家の第一号

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2006年2月17日 (金)

★ 西行忌

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 暖かい日が続きますが、週末にはまた冷え込みそうです。
 一昨日2月15日は『西行忌』ですね。享年73歳でした。歳時記に2月15日と載ってはいますが旧暦での事ですから、新暦に当て嵌めると今年の場合3月14日となります。
「新古今和歌集」などで皆さんもご存知の平安時代の旅の歌人ですが、芭蕉が終生敬愛し憬れた歌人ですから俳人にとって最も近しい歌人なのでしょう。


        願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃


と釈迦入寂の2月15日頃に没したいものだと詠み、この歌の通りに亡くなった事から西行崇拝が往時の全国に広がったとの話はあまりにも有名です。
 

        花あれば西行の日とおもふべし  角川源義


 西行忌を詠んだ俳句では、「願はくば…」の西行の歌を踏まえて詠んだ角川源義の句をまず思い浮かべます。

 松尾芭蕉が

        旅人と我名よばれん初しぐれ
        野ざらしを心に風のしむ身かな


等と詠んで旅に後半生を委ねたのも西行の生き様 和歌に憬れての事である事はよく知られていることですが、それだけに西行の和歌にちなんだ句を芭蕉は多く残しています。

 西行の和歌とそれを踏まえて詠んだ芭蕉の俳句の内から私の身近な伊勢と吉野で詠まれたものを併記してみます。

 まず伊勢での句

       何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こほるる  西行
       何の木の花とは知らず匂哉  芭蕉

       吹きわたす風にあはれをひとしめていづくもすごき秋の夕暮  西行
       秋の風伊勢の墓原なほ凄し  芭蕉


 芭蕉は伊勢に5度以上訪れています。西行は伊勢に2年程庵を結び住んでいて、二見の近くに「西行谷」の地名が残っています。

 西行が一番愛したのは吉野と桜にて3年間過ごして多くの句を残し、芭蕉も西行を慕って数度訪れています。


        み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり  西行
        碪打ちてわれに聞かせよ坊が妻  芭蕉

        とくとくと落つる岩間の清水くみほすほどもなきすまいかな  西行
        露とくとく心みに浮世すすがばや  芭蕉

        吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ花の花を尋ねむ  西行
        よし野にて桜見せふぞ檜の木笠  芭蕉


 (掲載写真は2年前に吉野を訪れた折に撮った「吉野山…」の西行歌碑です)

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2006年2月 3日 (金)

★草城忌 <2006/01/29>

 暖かくなるとの予報にもかゝわらず、室内は結構冷え込んでいます。正午現在9.3℃です。 しかし無風好天にて日射しを歩くと快適です。

 今日1月29日は草城忌。日野草城の1956(昭和31)年の忌日です。住まいは大阪・池田。
 モダンな作風で新興俳匂の一翼を担った俳人にて
 「ミヤコホテル」の連作で賛否両論が噴出した事は有名です。
 それもそのはずで、新婚の夜はかくもあろうかとでっちあげた想像句なのですから。

     けふよりの妻と来て泊つる宵の春
     夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ
     枕辺の春の灯は妻が消しぬ
     をみなとはかゝるものかも春の闇
     麗かな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

なんて読んでるほうが恥ずかしくなってしまいます。

 しかし草城は大正7年三高入学時の若さで沈滞ぎみのホトトギスに彗星の如く現れ、従来の古風な客観写生に軽快で斬新な風を吹かせた才人でした。

     物の種にぎればいのちひしめける
     春暁やひとこそ知らぬ木々の雨
     春の蚊のひとたび過ぎし眉の上
     春の夜やレモンに触るる鼻の先

 現在に於いて詠まれている斬新と思われるような句柄の中にはとうの昔に草城が詠んでいたりするのです。
 ただ才気走った技巧で詠む句風には限界があったようで、以降 連作俳句や新興俳句で活躍したものゝあまり評価はされていないようです。
 終戦後の晩年病臥の身になってより地に足のついた境涯的な句風となり再評価される事になります。
 山本健吉は草城を「極端な早熟型の極端な晩成型」と評し、病気が彼にようやく句境の沈潜を与えたとすれば 何と云う長い才能の放浪時代を経てしまったのだろうと嘆じています。

     てのひらに載りし林檎の値を言はる
     夏蒲団ふわりとかかる骨の上
     朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ
     咳やみて寒夜ふたたび沈みけり
     肌寒や貝にぎやかに蜆汁
     高熱の鶴青空にただよへり

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★久女忌 <2006/01/21>

 今日もどんよりと曇って寒い一日でした。東京では初めて積雪が見られたようです。

 今日1月21日は「久女忌」、俳人・杉田久女の1946(昭和21)年の忌日です。
 高浜虚子との確執・精神を病んだ晩年等と不幸なイメージの強い俳人ですが、
 女性俳人活躍のパイオニアと云うだけでなく、俳句に新しい可能性もたらし、秋櫻子等にも影響を与えた優れた俳人と評価されています。
 
 以前 嫁ぎ先である愛知県小原村の杉田家代々の墓地に建つ久女の墓を師と訪れた事があります。
 杉田家跡には長屋門のみが遺り、それを潜ると久女の句碑と観音像が建っていました。
 句碑には
    灌沐の浄法身を拝しける 久女

 その他下記の句等がよく知られているのは皆さんご存知の通りです。
 
    虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯
    ぬかづけばわれも善女や仏生会
    足袋つぐやノラともならず教師妻
    朝顔や濁り初めたる市の空
    紫陽花に秋冷いたる信濃かな
    谺して山ほととぎすほしいまゝ
    風に落つ楊貴妃桜房のまゝ
    花衣ぬぐや纏る紐いろ~
    首に捲く銀狐は愛し手を垂るる

 久女が小原村にいたのは長女出産の折一年間だけでしたが、
 その長女とは石昌子氏。やはり俳人です。久女をモデルとした小説「菊枕」の作者 松本清張を訴えて裁判を起こしたり、虚子が許可しなかった久女の句集を上梓したりと久女の名誉回復に奔走した人です。
 また田辺聖子が「花衣脱げば纏わる…私が愛の杉田久女」を書いた事によって久女のイメージも好転したようです。

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★青々忌 <2006/01/09>

 1月9日は「成人の日」。何か15日でないとピンときませんね。
 神戸在住の折の今日9日の夜は「宵戎」、10日は「十日戎」に出掛けたものでした。
 愛称で「えべっさん」と呼びますが、恵比寿祭は関西方面で盛んなようです。
 特に兵庫県西宮市にある「西宮神社」は全国の恵比寿宮の総本社にて『商売繁盛でササ持って来い』と商売繁盛を願い 笹や熊手を求めてそれは賑わいます。東京の「酉の市」に匹敵するでしょう。

 10日に私の勤めていた会社では飾ってあった鏡餅を割って ぜんざいを作り社員一同で頂いたものでした。当時の暖房はまだストーブでしたから その上でコトコトと…。

 俳句関係で今日は「青々忌」。
 ホトトギス派の俳人 松瀬青々の1937(昭和12)年の忌日です。
  青々の新年の句を幾つか下記に。
 
   四方拝禁裡の垣ぞ拝まるる
   ひとり寝の一枚かふや宝船
   初夢の吉に疑無かりけり
   年棚はやや筋違にゆがみけり
   歯固やかねて佗しき飯の砂
   うかとしてまた驚くや事始
   七草の粥のあをみやいさぎよき

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2006年2月 2日 (木)

★一碧楼忌 <2005/12/30>

 今日12月30日は俳句関係では一碧楼忌。中塚一碧楼の1946(昭和21)年の忌日です。
  碧梧桐と俳誌『海紅』を創刊して自由律俳句の創始者とも云われる俳人ですが、功績としては口語を積極的に取り入れた事でしょうか。

   鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見 一碧楼 

 他に寺田寅彦(物理学者・随筆家)1935(昭和10)没。
 横光利一(新感覚派文学)1947(昭和22)没。の忌日。

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★波郷忌 <2005/11/21>

 11月21日は波郷忌(惜命忌,忍冬忌)1969(昭和44)年 57歳没。
 
    霜柱俳句は切字響きけり  波郷

等と詠みつつ句の姿勢を正すことに功大なりの俳人でした。
 また生活に即した人生諷詠に活眼して「俳句は私小説だ」と言い、草田男、楸邨と並んで人間探求派と称されましたが、意外と早世だったのですね。

    鰯雲ひろがりひろがり創痛む    波郷     <創(キズ)>

 しかし掲句のように中八の句も詠んでいますが、繰り返しの表現が中八の乱れを感じさせません。
 私も

    花屑にぶつかりぶつかり水馬  暢一

と今年詠みましたが、今気が付いてみると波郷と同じような詠み方をしていました。中八は今迄詠んだ何千句の内この一句だけにて、やはり中八は俳句本来の韻ではありませんから避けるべきなのでしょう。

    波郷忌のはたと昏れたり石蕗の花  皆川盤水

 また今日は二の酉と載っていました。丁度5年前の20周年記念大会出席の折の夜に鷲神社を訪れた事が懐かしく思い出されます。

    東京の思ひ出を買ふ熊手買ふ  暢一

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★蛇笏忌  <2005/10/03>

 10月3日は蛇笏忌(山廬忌)です。昭和37年77歳没。
 最近も藤田湘子氏、福田甲子氏の訃報が相次ぎましたが、飯田蛇笏等の後の時代を担った俳人にも故人となる方々が増えてきました。淋しい思いがします。

    蛇笏忌の岩うつ滝の音聞ゆ     飯田龍太
    蛇笏忌の田に出て月のしづくあび  福田甲子雄

 飯田蛇笏は格調の高い滝の句を多く残しており
    
    冬滝のきけば相次ぐこだまかな
    葛の葉や滝のとどろく岩がくり   

等が知られていますが、龍太氏の句はそこらを踏まえて詠まれたのでしょう。

 蛇笏は自宅の裏だったか近くだったかにある滝を詠んでいたそうですが、当時の俳人が蛇笏の滝の句から想像してさぞかし素晴らしい滝だろうと実際に訪れたところ、チョロチョロとした貧弱な滝だったと云う逸話を聞いた事があります。虚と実を詠み込む参考になりそうです。

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★千代尼忌 <2005/09/08>

 9月8日は「千代尼忌」。幼少期から天才と称された加賀の千代女の忌日です。

   朝顔やつるべとられてもらひ水

と昔なら子供でも知っていた句が有名ですね。
 芭蕉の高弟、支考に十代から見出されて花芙蓉に例えられた美人俳人です。
 朝鮮通信使に千代女の句を書いた掛け軸、扇が贈り物に選ばれた程ですから、当時では国を代表する女流文化人であったようです。
 「欧州で『女詩人チヨ』の名は芭蕉、小林一茶、蕪村と並んで有名です。昨年、松任で開かれた世界子どもハイクキャンプに参加した各国の子どももチヨは知っていました」とある新聞に記述があったそうです。

 7歳の句
   初雁やそのあとからもあとからも
 17歳の句
   稲妻の裾をぬらすや水の上

と恐るべしです。
 
 「朝顔や…」の句は「朝顔に…」で我々は覚えていたり載っていたりしますが、地元の石川県白石市(元加賀国松任)のHPや文献には「朝顔や…」となっていますから「や」が正しいのでしょう。最も現代の俳句界では俗に落ち過ぎた句と言われたりして余り評判が良くありません。特に子規は「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」と手厳しい。
 
 今の時代でも通じる平易な言葉遣いの句が特徴です。
 
   秋風の山をまはるや鐘の声
   池の雪鴨遊べとて明てあり
   塚に一首おそれがましき蛙かな
   百生や蔓一すじの心より
   おしめども春はとまらで啼く蛙
   それぞれに名乗つて出づる若葉かな
 辞世の句
   月も見て我はこの世をかしく哉

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