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2005年12月の9件の記事

2005年12月31日 (土)

≪フォト俳句(195)≫12/31 ①除夜篝(伊勢神宮外宮)

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 昨日久し振りに外宮勾玉池まで早朝散歩をした。
 仕事その他多忙な事と、例年になく寒気厳しい事もあって12月の早朝散歩は最初で最後になってしまった。
 勾玉池は枯色の目立つ冬のこの時期であっても、何故か朝日の輝きを顕著に感じる。四方の杜の中にぽっかりと広がる池の面に因るのであろうか。
 その池の面を見る楽しみは鴨の群。しかし今年は例年になく ゆり鴎 が鴨の平安を乱していたが、この話題・写真は後日に譲る事にする。

 外宮の正面と裏参道の北御門前の広場の2ヶ所で既に地篝の大きな薪が高々と積み上げられて除夜詣の準備が整っていた。
 誰が置いたのか除夜篝火で焼こうと一年間門を飾った注連飾りが薪の上にあったが、本来は1月15日の どんど で焼くはずのものである。
 (伊勢は注連飾りを厄除けとして一年を通じて門に飾っておく風習があるが、この話題は新年に取り上げたいと思っている)


  みそか月なし千とせの杉を抱あらし  松尾芭蕉


 掲句は「野ざらし紀行」所収にて芭蕉が外宮を訪れた折の句である。
 『腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。
 暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほのくらく、御燈處ゝに見えて、また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して』 の文に続いて詠まれている。


      神宮の薪積み上げて年用意  暢一


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                <画像拡大可>

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2005年12月25日 (日)

≪フォト俳句(194)≫12/25 イルミネーション(名古屋駅)

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 11月よりJR名古屋駅セントラルタワーズの夜はイルミネーションが彩り鮮やかに点灯する。
 17時頃に突然点くので驚きの歓声が湧き上がる。
 毎年デザインも一新してだんだん使用電球の数も増えていっているらしい。
 昨年一昨年のイルミネーションも以前の記事で少し触れた。

 見出しと下の写真の内上三枚は東京から伊勢への帰路、夕食の為に名古屋駅で下車した序でにデジカメで撮ったものにて、クリックして頂ければ拡大する。
 それ以下の写真はこの13日の岡崎句会出席の帰路に撮ったもので、携帯写真の為に拡大は不可である。


  聖菓買ひしばらく他人と歩を合はす   岡本 眸


 今年の年末は記録的な寒波襲来にて名古屋も雪に難渋しているようだ。


       鳩笛を買ふ聖樹下の屋台店  暢一
    
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2005年12月22日 (木)

≪フォト俳句(193)≫12/22 ④しだれざくら句碑・真間山弘法寺(千葉県市川市)

IMG_0184 更に引き続きの記事④である。
 「野菊の墓」の碑を訪れてから、市バスに乗り市川市に向かう。
 今回行程のメインである真間山弘法寺に建つ富安風生の有名な「しだれざくら句碑」を目指してである。
 
 弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代(737)に里娘 「手児奈の哀話」から慰霊の為に一宇が建てられたのを起源とし、平安時代(822)空海が七堂伽藍に再建したと云う古い歴史を誇る寺院だ。

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 「しだれざくら句碑」は樹齢400年を越える枝垂桜の下に建立されていた。
 この枝垂桜は伏姫桜と呼ばれ南総里見八犬伝の伏姫を由来とする。

      まさをなる空よりしだれざくらかな  富安 風生
   
 句碑のしだれざくらの句は句集「松籟」(昭和15年)に下記の句と共に「真間、伏姫櫻 二句」と添え書きの上所収されている。

  ここに立てばかなたにしだれざくらかな  富安 風生


 弘法寺では他に水原秋桜子や小林一茶の句碑を見る事も出来た。

       梨咲くと葛飾の野はとのぐもり   水原 秋桜子
       真間寺や斯う拾ひしよ散紅葉   小林 一茶


       落葉斯く掃かれてしだれざくら句碑  暢一

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                      <全画像拡大可>

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 ※ 記事中で「手児奈の哀話」に触れたが、弘法寺門前に「手児奈霊神堂」が建つ。 哀話についても述べているので宜しければ下記タイトルをクリックしてご覧下さい。
         ↓
  「寺ナビ.com」 住職インタビュー ‘手児奈霊神堂 真間山 弘法寺’

 ※ 同じく記事中で「伏姫桜」について「南総里見八犬伝」の伏姫を由来すると述べたが、「 この近くに里見氏(実在した戦国大名の里見家のこと)の居城があったことから、伏姫 に劣らぬ美しい桜ということで名づけられたとのこと」と説明しているブログがあった。.
   満開の伏姫桜の画像も多数あり必見。 宜しければ下記タトルをクリックしてご覧下さい。
          ↓
   「Hiking・デジカメ画像・ワイン&Diet日記」 ‘真間山弘法寺の「伏姫桜」を撮る’

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2005年12月20日 (火)

≪フォト俳句(192)≫12/20 ③矢切の渡し・「野菊の墓」碑・葱畑(千葉県松戸市)

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 引き続きの記事③である。
 柴又の帝釈天の近くを「江戸川」が流れる。「男はつらいよ」の映画の折々に登場し、エンディングでは正月風景の凧揚げ等の見える河畔が江戸川だ。
 ここには細川たかしの唄う演歌でも有名になった「矢切の渡し」がある。 この演歌は昭和58年と云うから 22年も前の歌だが、今も演歌のお陰による観光客で賑わい観光用の渡し舟が運行されている。
 「矢切の渡し」は元々江戸時代初期、地元民専用に耕作・日用品購入・社寺参詣などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちの一つにて歴史ある渡しだが、この渡しが最初に全国的に有名になったのは、明治時代に入り伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906)によってである。

 東京都葛飾区柴又から「矢切の渡し」にて江戸川の対岸に渡ると そこは千葉県松戸市矢切。江戸川は東京都と千葉県の境を流れているのだ。
 
   人黝く増えて渡し場枯深し   岡本 眸

 歩いて20分位であろうか、見渡す限りの平野に辛うじて見える丘陵の住宅街一角に「野菊の墓」の碑が建立されている。
 「野菊の墓」の碑への道中は関東葱の畑が広がる道を辿るのだが、私には30cm以上は盛り上げてあろうかと思う畝の高さには驚きであった。

     下総の四方に山無き葱畑  暢一

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             <画像拡大可>

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2005年12月18日 (日)

≪フォト俳句(191)≫12/18 ②銀杏黄葉(柴又・帝釈天)

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 前回の東京行の続きである。
 芝の増上寺を訪れた後、地下鉄の大門駅から都営浅草線、京成線と乗り継いで「柴又駅」で下車。
 「男はつらいよ」の映画でお馴染みの駅である。改札を出ると鞄を提げた寅さんの像が迎えてくれた。
 
 駅前広場から真っ直ぐに「帝釈天」まで参道が延びる。
 映画のモデルとなった団子屋「とらや」のある商店街であるが、思ったよりも狭いその通りには驚いた。
 「とらや」で買った団子を頬張りながら歩くとすぐに「帝釈天」の二天門に着く。
 今は亡き名優 笠智衆の演じる御前様が掃いていた境内もやはり映画でイメージしていた程は広くなかったが、落ち着いた佳い雰囲気の寺院である。

 「帝釈天」は1629年開祖だが、東京の歴史的な建物は当然の事ながら江戸時代以降の建造であるから、伊勢や京都に馴染みの私には歴史的にそれ程の古さを感じない。
 ただご本尊の帝釈天は日蓮上人の親刻と伝えられているらしい。


     柴又へ通ふ渡しや蘆の花   正岡子規


 ここ帝釈天でも銀杏の大木が見事に黄葉していた。 東京とは紅葉よりも黄葉の街が私の印象である。


     黄落や君の手を吾がポケットに  暢一


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2005年12月15日 (木)

≪フォト俳句(190)≫12/15 ①銀杏黄葉(皇居・増上寺)

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 まだ11月の話題にて申し訳ないが、26日に上京する機会があった。
 結社の25周年記念大会出席の為であるが、5年毎の記念大会はかならず11月下旬に開催される。
 東京駅から皇居前に建つ東京會舘の会場まで黄落の銀杏並木を辿って行くのもまた毎回の楽しみの一つだが、今年の銀杏は例年よりも黄落期が遅いようだ。
 
 翌朝は宿泊ホテルから徒歩数分、芝の「増上寺」を訪ねた。
 増上寺は浄土宗の七大本山の一つ。江戸時代の初め徳川家康の帰依を受けた事から大伽藍(がらん)が造営され以降徳川家の菩提寺として、また関東十八 檀林(だんりん)の筆頭として興隆した寺院であるが、私には東京タワーを借景とした寺として馴染みである。

 写真上右の梵鐘は1673年四代家綱の命により造られたが、奥方のかんざし等多くの寄付を集めて江戸で初めて造られた鐘として有名である。

    今鳴るは 芝か上野か 浅草か
          江戸七分 ほどは聞える 芝の鐘

 この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、江戸庶民に親しまれ、多くの川柳を生んでいる。


      凩に早鐘つくや増上寺   夏目漱石


 増上寺の鐘と云うと掲句の夏目漱石の句がまず思い浮かぶ。明治二十九年の作である。
 写真下左は身の丈の倍はありそうな儀式用の太鼓だ。
 手で叩いてみたら大きな音で鳴り響いたので驚き、首をすくめて周りに気兼ねしてしまった。


      東京に美しき季あり散銀杏  暢一                     
                                【季(とき)】

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2005年12月10日 (土)

≪フォト俳句(189)≫12/10 ⑤輪中農家・木曾三川公園(岐阜県海津市)

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 前回記事より引き続いてである。
 「治水神社」「木曾三川公園」は桑名市の北に隣接してはいるが住所は海津市である。海津市と言えば岐阜県だから三重県と岐阜県の県境近くに位置する訳だ。
 この辺りは揖斐・長良・木曾の三川に挟まれた水郷地区にて、「輪中」と呼ばれる川よりも低地の農村地帯として地理学的には有名な所である。

 「輪中」は辞書に下記のように載っている。
 『洪水から集落や耕地を守るため、周囲に堤防を巡らした低湿地域または共同村落組織。江戸時代につくられたものが多く、木曾・長良(ながら)・揖斐(いび)の三河川の合流地域につくられたものが有名』

    堤焼く焔の手結びて美濃輪中  加倉井秋を

                          【堤焼く(早春の季語)】

 公園の一角では水害の多かった「輪中」ならではの工夫が見られる昔の農家を見学する事が出来る。
 家屋は水害から守るために高台を築いた上に建つが、その高台の側面が菊で飾られていた。
 陽射し溢れる縁側、豪華な仏間、厨の竈や五右衛門風呂等が郷愁を誘う。
 5回にわたって記事を続けたが、桑名の名所と木曾三川の雄大な景を堪能した旅行であった。

      枯芦や三川寄りて音のなき  暢一

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 ↑ 真ん中の玄関の写真は分かり辛いであろうが、軒に逆さに
保管されている避難用の小舟。棹も付いている。
 右は高台にある宅地から更に高く石垣を築いて建てられた蔵。

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2005年12月 8日 (木)

≪フォト俳句(188)≫12/8 ④紅葉・木曾三川公園(岐阜県海津市)

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 前回記事の治水神社と道一つ隔て「木曾三川公園」が広がる。
 この公園は国営と聞いて珍しく少し奇異な思いをしたが、長良川河口堰が絡んでいるのかも知れないと憶測する。
 それは兎も角として広々とした公園に高さ65mの展望タワーが聳え、その展望タワーから360度の木曾三川の眺めは雄大で魅了された。
 この公園を訪れる人々は多くても治水神社には気付かなかったり素通りする人が多いのは少し寂しい思いがするけれど。
 下に掲載の上右側の写真は展望台から撮ったものであるが、真中辺りの森が治水神社である。
 左が長良川。右が揖斐川。その間に伸びるのが千本松原と堤防道路である。

    揖斐川の葦枯れたりし昼夜帯   伊藤敬子
    
 公園の花壇にこの時期見るべきものは無かったが、紅葉黄葉の木々が彩りを添えていた。

    赤すぎて拾ひし紅葉捨ててしまふ  暢一

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2005年12月 5日 (月)

≪フォト俳句(187)≫12/5 ③芦・木曾三川・治水神社(岐阜県海津市)

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 前回記事にて触れた「揖斐川」は桑名市の辺りでは上流の鵜飼で有名な「長良川」と堤防一つを隔てただけで並行して流れ、河口近くにて揖斐川・長良川は一本の河となる。まさに大河と呼ぶに相応しい見事な景である。
 河口近くでは一時期問題となった長良川の河口堰の威容を望む事が出来る。
 また揖斐川・長良川のすぐ近くを木曽川が流れており、この三本の川を「木曾三川」と総称する。

 私の気に入りの所は「揖斐川」と「長良川」の間の堤防を走る道である。満々と水を湛えて流れる大川を左右にした眺めは広々と河原を埋め尽くす芦と相まって素晴らしい。
 下手な地図を描いてみたがやはり不正確なので、詳しくはグーグルの衛星写真をご覧頂きたい。
 拡大や地図に変換も出来るので仔細をご覧頂けると思う。
 
 この堤防を車で10分程北上すると「千本松原」と呼ばれる松並木と「治水神社」がある。
 「治水神社」の祭神は薩摩藩家老であった平田靭負である。
 遥に遠い薩摩藩の一家老を神として立派な神社を建立し、今の時代に亘っても大切に祀っているのには勿論理由がある。

 揖斐川・長良川は近くの木曽川より少し低地を流れている事もあって昔はすぐに氾濫をしてしまう川であった。
 そこで約250年前に薩摩藩が堤防・浚渫工事の命を幕府より受けたが、それは筆舌を尽し難い程の苛烈な工事であったらしい。
 工事中の洪水による再々々工事、幕府からの過酷な命令や侮辱等々。犠牲者は記録に残っている薩摩藩士だけでも86名に上る。内53名もが耐えかねての自決と云うのだ。
 10年の歳月を経て完工したが、総奉行であった家老 平田靭負は薩摩藩主に完工を報告のあと全責任を負って彼も自決した。この時代に要職にある人が責任を負うと云う事は命を絶つと云う事なのだ。少し前に記事にした円座の大庄屋も武士でないにも拘らず責任を負って自決している。

     冬麗の大河一微の涸れもなし  岡本 眸
  
 掲句は作者が8年前の12月に桑名を訪れた折の作にて、句集「流速」に下記の句と共に長良川畔七句として所収されている。

     綿虫や城濠いまは生活川
     干菜吊り大河明りもここらまで
     枯枝とて桜なりけり潜りみる
     夕日いま鏡のごとし落葉焚
     振って消すマッチもろとも枯川原
     冬深むこころに雨の河口堰

 治水神社の境内には薩摩藩士全犠牲者の名を記した慰霊碑が建っている。比較的新しい物のようだ。

      全景の芦暮れなづむ焚火かな  暢一

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