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2006年8月の6件の記事

2006年8月31日 (木)

≪フォト俳句(247)≫8/31 ⑮ 阿曽浦漁港(南島)

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Bimg_3777 伊勢志摩吟行会記も15回目と長くなってしまったが、前回・前々回記事の南島大橋の景を堪能して更に先へ進み、小さな峠を越えると突然と云った感じで漁港に出た。
 最終目的地の 「阿曽浦漁港」 である。
 左画像がその峠からの出口だが、ここから急に下の数々の画像の景が広がる。 山と海が入り混じるリアス式海岸ならではであろう。

               石段を登り漁村の寺涼し   高浜虚子


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4ximg_3769 阿曽浦漁港は下記の三つの港区からなる。
 ① 熊野灘の外洋に直接面して南西に開口する港区。
 ② 阿曽湾内にあって西北に開口する港区。
 ③ 狭い水路を通じて出入りする大池部の港区。

 地区人口は約1300人、漁船数は約600隻と以外に大きな規模だ。
 各種の魚類養殖が中核となっているが、中でも真珠養殖の経営規模が最も大きい。

 私達が峠を越えて出た漁港は②の阿曽湾内の港区である。 宜しければ前回記事の地図を参照して頂きたい。

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Img_3779 上の左端画像のように、崖に張り付いた建物は海に突き出ていて珍しい光景だ。 対岸の建物も殆どが海に突き出ている。
 建物には小さな桟橋があり、直接漁船に乗り込めるようになっている。 中には人の住んでいそうな建物もあるが、殆どは作業小屋なのだろう。

 港の岸壁には釣竿を垂れている人達もいる。
 10年程前から解禁されていて、夏は石鯛の60cm級がよく釣れるそうだ。
 
 何時の間にか8月も末になってしまったが、訪れた時期は6月中旬である。 紫陽花がぽつんと咲いていた。

Haetorigusaimg_4826_1 Img_4828 その横の草叢にピンクの小さな花が咲き乱れている。
 句友に名を訊ねると蝿取り草と教えてくれた。
 確か食虫植物に同名のものがあったけれどと訝って帰宅後調べてみた。
 正確なこの画像の花の名は 「蝿取撫子」だった。 
 花の下の茎の一部が粘液を分泌し、小さな虫等が付着している事からの名と載っていた。 また食虫植物ではないとも。

 何時しか暮色の迫り出した漁港を後にして、山越えの奥伊勢を辿りつゝ一気に伊勢市内に戻り今回の伊勢志摩吟行会を楽しく無事終える事が出来た。


           山並の暮れても暮れぬ夏の海  暢一


                       <全画像拡大可>

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2006年8月25日 (金)

≪フォト俳句(246)≫8/25 ⑭ 阿曽浦大橋 (南島)

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 伊勢志摩吟行会の14回目である。
 前回記事で南島大橋の景観を楽しみ先に進んだ。 直ぐに少し短い次の橋が現れる。
 南島大橋は 「南島の親子橋」 とも呼ばれ長短二つの橋からなる。
 長い橋が前回記事の 「南島大橋」 。 
                 短い橋が 「阿曽浦大橋」 と名付けられている。
 
 
Aimg_3815 今回は短いほうの橋 「阿曽浦大橋」 の景観をご紹介したいと思う。
 阿曽浦大橋が短いと云う事は入り江の海峡の幅も狭いと云う事になる。
 右の画像を拡大してご覧頂きたい。 川と見紛うけれどこれでも海である。
 
 地図でもお判りのようにこの辺りは複雑に海岸線の入り込んだリアス式海岸である。
 リアス式海岸は沈降海岸とも言うが、志摩半島から南紀にかけての海岸は単純な沈降海岸でなく、隆起海食台と特に呼ばれて世界的にも珍しい複雑な地形と言われる。
 ある時は隆起して川が大地を削り、ある時は海面が上昇しておぼれ谷を造る。

 「リアス」はスペイン北西部のガルシア地方の入り江にその特徴が顕著である事から、スペイン語の入り江を意味する語を元に付けられたものだ。
 日本では他に三陸海岸、豊後水道、若狭湾、玄界灘などが知られている。

 このような陸地や海面の複雑な変化によって芸術的なこの地方独特の景観が造られたのであるが、この地形がまた真珠養殖や伊勢海老の成育に最適にて、志摩半島近辺の特産となっている所以なのだ。

              入海の更に入江の里の秋   松本たかし


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 阿曽浦大橋の下をやはり小さな漁船が午後にも拘らずひっきりなしに潜っていく。
 入り江内の阿曽浦漁港から漁船は目的場所によって南島大橋と阿曽浦大橋のどちらかの海峡を選んで航行していくようだ。


                海峡を夏鶯のこゑ渡る  暢一 


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2006年8月20日 (日)

≪フォト俳句(245)≫8/20 ⑬ 南島大橋

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Amapimage 伊勢志摩吟行会記の13回目である。
 「愛洲の里」 から国道260号線の海景色を楽しみながら快調に車を走らせて目的地の 「南島大橋」 に着いた。

 南島大橋までの今迄訪れた地を左の地図に印をしてみたが、近郊の人意外には馴染みの少ない土地が多かったと思う。
 有名とまではいかないが 「御座・浜島」 はまだ観光紹介されている。 しかし五ヶ所の 「愛洲の里」 や今回記事の 「南島大橋」 は観光とは全く無縁の感じにて、道中に観光客らしき姿や車は皆無だ。 勿論 観光バスなどは一台も見掛けなかった。
 

Bmk_map 朱も鮮やかな 「南島大橋」 は 「贄湾(ニエワン)」 内の複雑に入り込んだ入江を跨いで架かる。 
 左の地図を拡大の上 参照して頂きたい。 
 南島大橋を渡った先にある 「阿曽浦」 は海崖に面した立地から近年まで交通手段は船が主であった。 地図にも記されているように陸路はあったけれど険しい為に船の方がはるかに楽だったのだ。
 大橋が完成した事によって阿曽浦から国道260号線の通じる 「慥柄浦(タシカラウラ)」 へ車で10分も掛からずに出る事が可能になった。


 それにしても 「贄」 と云い 「慥柄」 と云い歴史を感じさせる難しい字の地名だ。
 それもそのはずにて、南島地方は伊勢神宮の古実を記した古書に登場し伊勢神宮創始に関わる土地なのだ。

 要約すると
 垂仁天皇の皇女である 「倭姫命」 が天照大御神の鎮座する神宮を創始する為の地を探索していた折にこれらの土地を通り、野見坂より山を越え渡会に出て その地の神主に霊域の示唆を受けた事により、伊勢は宇治の地に神宮を建立したのが伊勢神宮の創始である。
 
 西暦元年の頃の話であるから、南島大橋のこの近辺の地名は神話の世界に登場する事になる。

 くしくも我々吟行会一行がこの後 伊勢に戻ったルートは倭姫命が辿った道と同じであった。
 但し今、野見坂には立派な長短二つのトンネルが出来て伊勢までの交通の便が良くなったが、これも近年の事である。
 それまで南島地方の人々は倭姫命が越えたと同じ峻険な峠越えの道を通って伊勢まで出て来ていた。

 また「日本武尊」 が東国征伐の途中伊勢の伯母を訪ね草薙剣と火打石を授かりそのお蔭で東国で命拾いをしたと云う古事記で一番親しまれている話があるが、その伊勢の伯母とは倭姫命の事だ。


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 南島大橋のたもとに地蔵尊が安置されている。
 橋の建設の折に事故などで犠牲になった方々の慰霊なのだろうかと思ったが、地蔵尊自体はかなり古そうなので、橋の建設場所辺りに元々祀られていたものかもしれない。
 都合3度訪れたが何時も清々しく清掃されていた。


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 南島大橋を渡ったすぐの所に広い駐車スペースがあるが、そこに車を停め歩いて大橋を渡ってみる。
 橋から右側を見ると贄湾と外洋への口が望まれる。
 左側は阿曽浦の裏湾にてまた違った景観だ。 
 裏湾から一隻の小さな漁船が現れて橋を潜って贄湾に出て行った。


              夕凪や入江に舟の舫ひせる   田中冬二


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 漁船につられて贄湾の方を眺めていると、今度は贄湾からまた漁船が近づいて来る。


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5ximg_4818 何か四角い物を押しながら橋を潜って行ったので、何だろうと欄干から身を乗り出して覗いてみる。
 四角い物の中にはぎっしりと紅い魚が犇いていた。 赤鯛だろうか。
 養殖の生簀らしい。 このように移動が簡単な小さな生簀があるのだなと思って見ていたが、水揚げする為に阿曽浦漁港まで運ぶ為の物かもしれない。

 随所に見える筏は勿論 真珠の養殖筏である。


             夕凪の入江に真珠育ちけり  暢一


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2006年8月15日 (火)

≪フォト俳句(244)≫8/15 ⑫ 南勢・南島の海

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 伊勢志摩吟行会記も12回目と続いているがもう少しお付き合い頂きたい。
 南勢町五ヶ所の 「愛洲の里」 では東屋で昼食を摂り、野点ならぬ野句会を開いてゆっくりと時間を使った後、次の目的地に向った。

 次の目的地は南勢町から海沿いに更に西へ辿る隣の町、南島町にある 「南島大橋」 だ。
 複雑に入り組んだ 「贄湾」 内に掛かる朱色の南島大橋は大小二つあり、南島の親子橋とも呼ばれている。
 この二つの橋から望む景観はそれぞれ素晴らしい。

 今回は南島大橋に到る道沿いの海景色を下の画像でご紹介し、次回には南島大橋とそれを渡って行く阿曽浦漁港をご紹介したいと思う。


            万緑の端の迫り出す熊野灘  暢一


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 南島大橋への道は海を望む山道だ。 6月中旬らしく卯の花が咲いていた。
 足元を見ると、真っ赤な蛇苺も。


         押しあうて又卯の花の咲きこぼれ  正岡子規


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.
16img_3705 この南島大橋手前に咲いていた卯の花については 「日々身辺抄」 の 「6月10日(土曜日)」 でも記事にしたので宜しければご覧頂きたい。


            <全画像拡大可>

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2006年8月10日 (木)

≪フォト俳句(243)≫8/10 ⑪ 愛洲の里 2(南勢町五ヶ所)

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 伊勢志摩吟行会記が続いているが、今回も前回と同じく 「愛洲の里」 をもう少し取り上げてみる。
 愛洲の里は愛洲一族の居城であった五ヶ所城の小山を中心にして整備された公園だ。

 今回は城山にまで登る事は出来なかったが、
 蜜柑畑の道を登ると竹林と雑木に囲まれた城址に出る。
 北と西は五ヶ所川から急な崖となっており、南と東にはL字型に続く二重の堀と土塁に囲まれた堅固な山城であり、中世の城としては詰の丸と居館の跡が残っている貴重な遺跡。
 と 「三遠伊勢・地域資源ナビゲータ」 のサイトで説明されていた。

 五ヶ所は三重県でも有名な蜜柑の産地にて山の斜面のそここゝに蜜柑畑がみられる。


1img_3929 愛洲一族は南北朝時代以前からの豪族にて、南朝方としてそれなりの活躍をしたらしい。 
 15世紀に北畠家の守護職を得て伊勢神宮のお膝元の大湊や山田(現伊勢市の中心市街地)にも進出して伊勢守護となり広く南伊勢一帯を勢力圏とした事もあったが、戦国時代 織田家に乗っ取られた北畠家によって滅ぼされてしまった。

 また五ヶ所は伊勢神宮と熊野を結ぶ海の交通の要所でもあり、愛洲氏は強力な水軍を擁してここに関所を設け通行銭を徴収していた。
 愛洲水軍は熊野水軍である と書いているものが愛洲関係のサイトでは多かった。 
 しかし歴史上、熊野水軍は九鬼一族が代表する水軍として有名だ。 愛洲水軍は九鬼氏を相手に戦っていた と記述しているサイトもあったから、恐らく熊野水軍とは南紀一帯に数あった水軍の総称にて、水軍同士は常に争っていたのであろう。


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 公園の奥へ水の澄んだ小川沿いに城山の麓を辿っていくと、突然水車小屋が現れた。
 意味も無く唐突な感じがしたが、覗いてみると実際に稼動していた水車を移築したものらしく珍しかった。

         崩れたる水車の跡や河鹿鳴く   寺田寅彦

11img_3974 10img_3970小さな祠があり脇に以下のような説明碑が建っている。

 『石切之祠。 
 往古前田の灌漑用水工事のとき、ここに到り大岩石に当り術を失い只菅神に祈りをささげた。 
 一夜明けて農民の願いは叶い、不思議にも岩は割れて通水することが出来ました。
 これを奇縁として祀られたのがこの水神さんと伝えられています』


9img_3969 その横には 「牛鬼」の像。
 この愛洲の牛鬼については
 面白い昔話のサイト 『むかしばなし牛鬼』 に詳しい。
 興味のある方はご覧頂きたい。

      牛鬼の像が牙剥く木下闇  暢一


 「牛鬼」 と云う怪獣の伝説は全国各地にある。
 特に宇和島の牛鬼は市を上げての 「牛鬼まつり」 として知られている。
 これについては 『牛鬼の歴史と仕組み【宇和島市観光協会】』のサイトが詳しい。

 面白い事に 牛鬼の実物と称して角が伝わっている寺もある。 
 四国霊場第八十二番、高松の根香寺だ。
 同じく昔より伝わる牛鬼の姿図と共に根香寺の 『牛鬼伝説』 サイトで角の写真を大きくご覧頂ける。

                        <全画像拡大可>

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2006年8月 5日 (土)

≪フォト俳句(242)≫8/5 ⑩ 愛洲の里 1(南勢町五ヶ所)

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 伊勢志摩吟行会記も10回目となった。
 浜島漁港から海沿いを走る事の多い国道を、英虞湾の西側に位置する五ヶ所湾へと辿る。

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 南勢町の中心である五ヶ所の町から川沿いに少し山手の方へ入ると 「愛洲の里」 がある。
 左画像は愛洲の里に入る短い橋から撮影したものだが、背景の山は 「五ヶ所富士」 と呼ばれていて、山頂に鳥居の建っているのが望める。
 離れた麓からでもはっきりと見えるのだから、随分と大きな鳥居に違いない。
 
  「愛洲の里」 は南北朝から戦国時代にかけて栄えた豪族 愛洲一族の居城であった五ケ所城跡を整備した公園だ。
 剣祖 「愛洲移香斎」 (あいすいこうさい)の生涯や町の伝統芸能などを紹介した「愛洲の館」 「五ケ所城跡」 「古井戸」 「牛鬼の像」 などがある。

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 下見で訪れた時には川沿いに調子よく車を走らせていて うっかりと通り過ぎってしまった。
 広々とした公園を想像していたからだが、意外にこじんまりとしている。
 駐車場に車を乗り入れると花菖蒲や紫陽花その他の花が我々を迎えてくれた。


             紫陽花や白よりいでし浅みどり  渡辺水巴  


 まず 「愛洲の館」 に入館してみる。
  
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 煉瓦と白壁造りの建物は中々趣きがある。
 躑躅がとても印象的だった。
 入館料一人250円也を事務所の窓口で支払って上がると、正面に剣豪の像が睨んでいる。

 剣祖 「愛洲移香斎」だ。
 この五ヶ所城主であった愛洲一族の一人として生まれた愛洲移香斎は剣祖と呼ばれているが、
 
 『 移香斎の生きていた戦国時代、戦い方が騎馬戦から歩兵戦に変わろうとしていた時代、まだ力任せに刀を振り下ろす扱い方が主流であった時代に、剣士の心の動きをも重視して技と表裏一体のものとしてとらえ、体系化したことは画期的なことであったし、その後受け継がれた剣法の中で人を生かす剣として花咲いたことをみるとき、その歴史的意義は大きいと言わざるを得ない 』 
とあるサイトで解説している。
 
 修行の為に全国を巡り、初めて剣法を編み出した武士であったらしい。
 
 彼はその流儀を「影流」と称した。
 有名な「柳生新影流」は愛洲移香斎の「影流」が発展したものである事からも、彼が剣祖と崇められる所以は理解出来る。 

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 上の右端の画像は御木本幸吉が真珠養殖の会社を興した折の建物に使用されていた鬼瓦との添え書きがしてある。
 真珠の「珠」 の字をデザインした特注品だ。
 
12img_4758  私達は展示館を見学した後、公園内を散策し、東屋でお弁当を頂き、その場で野外句会まで行なったから、かなり長時間に亘って愛洲の里に居た事になるが、その間 我々以外に誰も訪れる人は見掛けなかった。
 私が下見で訪れた折も同じであったから、入館料で維持費を賄うなんて事は不可能な施設だろう。

 但し 館には立派な剣道道場が併設されていて、大会が開かれたり地元剣士達の修行の場になっているようだ。


             短冊を押さへ句会や若葉風  暢一
 

                         <全画像拡大可> 

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